August 01, 2007

セカンドライフと成功物語〜ホレイショ・アルジャーとわらしべ長者

7月30日の昼過ぎから始まったセカンドライフの障害は、アメリカの時間で7月31日の午後5:01、日本では今日の午前11:01頃ひとまず解消したようですね。一体何が問題だったのか、リンデン・ラボのブログによると、最終的には、設定に誤りがあった、不幸な人的ミスである、と結論付けています。

まぁ、とりあえずこれで今日は順調に動いていますので、早速いろいろ試してみます。まずは今回のトラブルで消えてしまった15リンデン・ドル(今後、セカンドライフの記事では、ただ「ドル」と書くことにします。昨日のレートで大体L$277.00/US$になります。)を取り戻すべく、再びブラジル(Ilha Bahia)へ! そこで1時間太鼓を叩いて15ドル取り戻しました。それから、毎日、何か新しいことをしたいですからね。というわけで、やはりミュージシャンですから、今日はあちこち楽器を見て回りました。楽器がないとやっぱり仕事にならない。(笑 で、ある楽器屋はなかなか面白かったですね。ストラトキャスターのギターは大体500ドルくらい。うーん、欲しいけど高いな。今まだ65ドルくらいしか持っていないからね。これは何とかして手に入れたいのだ。そのストラトキャスターに並んでシタールなんかもある。やっぱり500ドル。DJ用のブラック・ディスクのターンテーブルは90ドルくらい。あ、シンセもある! これはどれも200ドルくらい。ストラトもそうだったけれどこの楽器屋はなかなかデザインがしっかりしていて、シンセはどう見てもコルグ、どう見てもヤマハ、どう見てもノルトリード、というなかなかリアルなもので、極めつけはどう見ても昔冨田勲さんやキース・エマーソンが使ってたみたいなタンスのようなモーグのシンセでしたね。試奏してみましたが、音は出ないものの、アニメーションがついていて、私は弾きながらシンセのパッチ(配線)を差し替えたりして、動きがなかなかリアルなので気に入りました。本物のモーグは買えそうにないですけれど、セカンドライフの世界で、こいつは絶対手に入れようと思いました。(笑 で、改造して音が出るようにしようと。

ところで、先程「今日は昨日とは違うことをしよう」みたいなことを書きましたけれども、これがセカンドライフの面白いところではないでしょうか。セカンドライフは全てが予めプログラムされたコンピュータ・ゲームとは一線を画しています。自分(のアバター)がどのような人間になっていくのか、どのように生きたいのか、全て自分で創っていくことが必要な世界なのです。どんな商品を創りたいのか、どんな建物に住んだり仕事したりしたいのか、どんな街を、社会を創りたいのか、全て0から、人との出会いを繰り返していく中で自ら創り出していく世界なのです。そこには必然的にクリエイター的、或いはアントレプレナー的な資質が必要とされていると言えます。逆に言うと、何かを生み出したいと思っている人には、これほど面白い世界はないとも言えます。

そう、全て0からスタートするのです。前にも書きましたが、手持ちのお金0、着ているものはジーパンとTシャツでベルトもない、みたいなところから始まるのです。そんなところから始めてクリエイティブなセレブとして成功している人たちも多いのだから、これはビジネスとして考えても、人生設計と考えても、実にリアルな実験、モデルになると言えますね。

と、ここ数日セカンドライフをやっていて思い出したのがホレイショ・アルジャーの Rugged Dick という、19世紀後半のアメリカで大ヒットした小説です。"Rugged Dick" とはぼろぼろの穴の空いた服を着た主人公の少年ディックのことなんですが、靴磨きの仕事をするディックは、その正直で明るく、勇気もある性格から、その仕事を通じていろんな人に気に入られ、最後には成功するという、正にアメリカ人の心の中にあるアメリカン・ドリームを描いた作品なのですが、これが、真面目に働けば自然とお金持ちになる、お金持ちになったら自分が稼いだものを社会に還元して次の人がより豊かになるように生きるという、プロテスタント精神と重なることは言うまでもありません。セカンドライフ→おんぼろディック→マックス・ヴェーバーと連想して、いかにもアメリカ発らしいしくみだなぁ、と思ったのでした。

そして更に連想が進んで思い出したのが「わらしべ長者」という日本の昔話。これはお金もなく仕事もない男が、どうしたものかと観音様のところに行ったら「今から歩き始めて最初に手にしたものを大切に持っていなさい」というお告げがあり、これはありがたや、と歩き始めたらいきなり躓いて、思わず藁を掴んでいた、という話ですね。で、こんなもん持っててもなぁ、と思いながらその藁を振り回しながら歩いていると
そこに蝿だか虻だかが留まり、ブンブン言うその藁を持って更に歩いていると大泣きしていた子供がそれを見て笑い出し、欲しがるのを見て、母親がその藁をみかんと交換してくれと言う。仕方なくみかんと交換して今度はみかんを持って歩いていくと、今度は喉が渇いている商人と出会い、そのみかんと反物を換えてくれと言う……というような感じで交換交換を繰り返して最後には長者になったというお話。

セカンドライフではお金がなくても生きていけますが、それではただ世界の中をうろうろするだけで終ってしまいます。何かしようとするとお金が要ります。が、0から始めて、どうやってお金を手に入れるかとなれば、これはもう、誰かに雇われて時間でお金を貰うか、物を売るしかないですね。自分には何が売れるか、売れるものがあるのか? そんな時このわらしべ長者の物語が思い出されるのです。自分は何も持っていないと思っても、他の人には必要な何かがあるかもしれない。その何かに気づいた時からビジネスというのは始まるのかもしれませんね。

たかがゲーム、と一方では思いながら、真剣に何を売ろう、何を創ろう、と真剣に考えている自分に気づきました。自分の分身であるアバターには豊かに生きていってもらいたいものです。と、ふと、現実に戻るのです。自分は現実の世界でどのように生きていきたいのか、何を売ったり創ったりして世の中の役に立っていこうとしているのか。

それがセカンドライフほど真剣に考えられないのは、案外、中途半端にお金があるからなのかもしれないですね。セカンドライフのアバターのように、或いはわらしべ長者の主人公の男のように、何もないところにいる方が、仕事のこと、生きることを真剣に考えられるのかもしれません。

さて、次は何をやろう?
それでは、また。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 18, 2006

もうやめて!〜レバノン空爆

レバノンの状況は極めて大変なことになっています。昨晩このブログを書いた後、寝る前にBBC、CNN、フランス2のニュースをチェックして愕然としました。イスラエルのレバノンに対する空爆は、ヒズボラの拠点があると言われていた南部の国境地帯どころか、トリポリやバールベックのような北部の都市からビブロス、サイダ、ティールと、レバノン全土の主要都市に及んでいるというのです。

ティールは昨年いだきしんさんと高麗恵子さんの「高句麗伝説」コンサートが行われた美しい、世界最古の都市であり、バールベックも、本来なら今年コンサートが行われ、私も行く筈の場所でした。ここはその名の通りバアルという中東一帯に影響力のあった神様の神殿があるところです。そしてサイダーー。ここは、歴史に詳しい方ならシドンと言った方が通りがいいかもしれません。十字軍の要塞のお城で有名な港町ですが、昨年の「高句麗伝説」コンサートの折に訪れた方も少なくないと思います。私の友人の一人は、ここのお菓子屋さんで買ったというベクラワというとてもおいしいアラブのお菓子をお土産に買って来てくれました。お菓子のパッケージにはそのお城の写真が載っており、私はその港町の空気を感じながらそのお菓子を食べたものです。

そのサイダが爆撃によって破壊されている様子をBBCの映像で見てしまったのです。いえ、サイダに限らず、ティールにしても、バールベックにしても、自分にとってはあまりに身近な町になってしまっており、もうやめて! と心の中で叫ばずにはいられないのです。一体、自国の兵士が拉致されたからと言って、隣国にこれだけの全面的な戦争をしかけるとは、どうかしています。一体、何を考えているんでしょうか? やはり、この人たちには、イエスが生まれたのを知って、ユダヤ中の2歳以下の男児を殺させた王様の血が流れているのでしょうか?

それに、昨日も書いた通り、レバノンにはイスラエルを支持してくれるはずのヨーロッパの国の人たちが多数いるのです。昨日は、イギリスが軍用ヘリを使って37人救出したとか80人まで搬送したとか言っていましたので観光客程度かと思っていましたら、BBCやフランス2のニュースでわかったのは、とんでもない数の外国人がレバノンにいるということです。

カナダ人:     40,000人
フィリピン人:   30,000人
オーストラリア人: 25,000人
アメリカ人:    25,000人
イギリス人:    22,000人
フランス人:    20,000人

実際に、カナダ人に死者が出たということで、脱出が始まっていますが、空港が使えませんので、或いはヘリ、或いは陸路バスで、或いはキプロスのリマゾールからのフェリーといった手段でレバノンを退去しようとしています。が、例えばフランスの場合ですと、この20,000人のうち、脱出の確保ができたのは僅か1,200人なのだそうです。

これだけの外国人がいることがわかっていながら、しかも観光シーズンであることがわかっていながら空港や港湾などのインフラを中心にレバノン全土に爆撃をしかけるイスラエルというのは、一体どういう国なんでしょう。或いはこうした国々を巻き込んで情勢を有利に導こうという、北朝鮮と同じような瀬戸際外交なんでしょうか?

何れにしても、罪のない一般の市民を、そして更には外国人をも巻き込んでしまうような行為は許せません。憎しみは更なる憎しみを増し、互いの命を傷つけるだけです。一刻も早く矛を収めてほしいものと思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

イスラエルのレバノン空爆に思う

日本海側で大雨の被害が出ています。ニュースで一畑電車が崩れた土砂に乗り上げている映像が映り、胸が痛みました。嘗て、大国主命やラフカディオ・ハーンの風景を、精神を求めて松江や出雲を訪れた時に自分もこの電車に乗って旅をしたのであり、映像に映っていた場所も覚えがあったからです。自分が訪れ、深い経験をした土地というのは、自分の故郷のように感じます。島根と言わず、福井と言わず、そうした土地が災害に遭っている映像を見るのは、自分の故郷が傷ついているように感じてしまうのです。

これは国内だけに限りません。スペイン、エチオピア、イラン、ヴェトナムーーこれまで自分が訪れた所で、特にその土地の人たちとの深い交流があった所は、やはり自分の故郷のように感じます。それだけに、こうした国々のことはいつも気になり、よろしからぬニュースが伝えられるとハラハラしながら見入ってしまうのです。

一週間ほど前から、イスラエルがレバノンに空爆を始めました。レバノンは、私自身は行ったことがないのですが、嘗てベイルートにある商社と取引をしていたことがあり、それに何より、昨年、いだきしんさんと高麗恵子さんがコンサートを行った土地であり、そのいだきしんさんの国内でのイベントでレバノンの映像を何度も見てきた私にとっては、やはり故郷のように感じる所なのです。BBCやフランス2チャンネルの映像で、戦火に包まれたベイルートの映像を目にした時、私は悲しく、悔しく、胸が痛んで仕方がないのでした。

昨日のフランス2チャンネルのニュースでは、幼い子供が顔中、体中にケガをして、泣きながら担架で運ばれている映像が大写しに流れていました。今でもあの子の顔を忘れることができません。それは、数年前にエチオピアの大飢饉の時に、BBCのニュースで瀕死の赤ん坊の顔が大写しになったり、つい今年、やはりBBCで、リベリアの、国連やボランティアの職員を相手に売春をしているという少女の顔が映ったこととダブってしまうのです。いつも、最初に犠牲になり、命を傷つけてしまうのはこうした子供たちなのです。

フランスのテレビがこうしたレバノン寄りの映像を見せるのはある意味当然かもしれませんが、本来イスラエル寄りであるはずのBBCも、寧ろレバノンに気遣う放送をしています。それもその筈、ベイルートはこれまで何度も書いてきましたが、ヨーロッパ人にとっては有数の観光地であり、丁度ヨーロッパがバカンスに入っているこの時期、レバノンには多くのイギリス人が観光に来ているのです。数日前の放送では、レバノンから出ることができないという女学生や、部屋の中でじっとしているしかないね、という夫婦などの映像が流されていました。本来、イスラエルとパレスチナの問題はイギリスが作ったと言えるのですが、そのイスラエルの空爆によってイギリス国民の命が危険に曝されているというのは実に皮肉と言えば皮肉なことです。

結局、忘れてはならないのは、私たちは皆どこかでつながっている、ということではないかと思います。人の命を傷つけるということは、実は自分自身の命を傷つけ、未来を傷つけているのかもしれません。あの子供たちの命が傷ついているのは、私たち自身の未来を奪うことなのです。災害や戦争の映像が、単に他人事、対岸の火事、ではなく、私の胸を痛めるのは、そこに生きる人たちの命とつながっているからだろうかと思います。もとは同じアフリカの地から広がっていった私たち。世界中の人たちが、互いにその命がつながっていると感じられること以外に憎しみを終わらせることはできないのではないでしょうか。

そのような、心を同じくする人たちが一人でも増えることを、そして、中東の地に一分でも早く戦火が止むことを祈ります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 05, 2006

北朝鮮のミサイル発射

今日は『原典 ユダの福音書』の話の続きを書く予定でしたが、やはり心騒ぎますね、北朝鮮からのミサイル。なので、今日は今この件について感じることを綴っておくことにします。

何にしても、危機感はありますよね。今日の未明、まだ私たちが寝ている時間に3発、そして私が出勤途上にある時に3発、更にまだ会社で働いていた夕方に1発。私たちがどこで何をしていようと、いつでも日本を攻撃、破壊できると言わんばかりではないですか。何とも恐ろしいことです。テレビでは今も普通にいつもの番組を流していますが、こんなようでは明日はないかもしれないのです。

日本人は平和ボケしているとはよく言われますが、実際にはこういう環境の中で生きていたのだということをもう一度認識する必要があると思います。例の、9・11の時も、アルカイダの次のターゲットが東京であったことは既に明らかにされています。明らかにされていても、危機感とは全く無縁のところで生きてしまっているのが今の日本人なんではないでしょうか。

一方、こんな挑発は許せないことですが、しかしだからと言って北朝鮮に対して強硬に出るのも、現にミサイルを何発も飛ばしている現状ではまた危険なことです。彼らが何を求めているのかはまだはっきりとはわかりませんが、何れにしても、1発でなく、何発も打つ程に、彼らは彼らなりに本気なのでしょう。本気というのは、こちらの対応如何で何をし出すかわからないということです。日本人の記者団がピョンヤンを訪れているという時期に、そして日本の朝鮮学校の子供たちが修学旅行で訪れている時にこうしたことをわざわざするのは、ある意味計画的と言えなくもありません。こちらの対応如何で彼らの生命を盾にとることができるわけですから。

一触即発、ということでは、私は以前にも紹介したキューバ危機の時のケネディ大統領のことを思い出します。大統領があの時何よりも気を使ったのは、ソ連に恥をかかせない、彼らのプライドを傷つけないことだったということです。恥をかかせず、プライドも傷つけずに矛を納めてもらい、彼も我も対面を保つにはどうすればよいかを必死で考えたのだそうです。もし少しでもバカにされてるとか恥を感じてしまったら、相手は何をするかわからないからです。

そしてもう一つは世界の子供たちのことだったといいます。自分たちの判断いかんで、アメリカやソ連とは何も関係のない、どこかの国の、自分たちのことすら知らない子供たちの生命も未来も奪ってしまうこと、これを最も怖れたのだそうです。

私はあのどちらも譲れないあの危機的な状況の中でこの二つを最優先して考え、そして実際に危機を回避したという、この事実だけでケネディという人は真に偉大な人だったと思っています。

キューバ危機の時の、実際の大統領の会合の録音テープを基にドキュメンタリータッチで撮られた映画「13デイズ」のラスト近く、ケビン・コスナー演じるケネス・オドネルがその妻に言うのです。「明日は来ないかもしれない。もし明日が来たら、その時こそ本当に神に感謝しよう。」と。危機は回避され、いつものように日が昇り、その明日が来た時の感動的なシーンを私は忘れることができません。

北朝鮮の今回のミサイル発射は決して許されるべきことではありませんが、両国のためは勿論、世界中の子供たちのためにも、人類の未来のためにも、両国政府には最良の判断、決断をしてほしいものだと思います。今、私たちにできることはやはり、そのように、明日が来るように、祈ることだけなのでしょう。


| | Comments (0) | TrackBack (1)

June 30, 2006

バフェットさんと森生さん

昨晩のブログでウォーレン・バフェットさんのことを書き、併せて森生文乃さんマンガについて触れたのですが、その森生さんのブログを見ると、バフェットさんのことでフジテレビからインタビューを受けたようですね。有名な投資家のことですから、投資のことや経済のことで、バフェットさんに詳しい専門家の方はたくさんいらっしゃるでしょうに、本を出しているとは言え、こういう人物のことについてマンガ家にインタビューとはおもしろい、と思いました。個人的に森生さんを存じ上げている私としてはやったぁ、という感じです。

まぁ、マンガとは言え、バフェットさんの人生について、経営について、そして何よりも魅力的な人となりについて描かれているわけですから、そういう意味ではバフェットさんについて精通した人として見られていて当然と言えば当然なのですが、私はそれとは別に、他の投資や経済の専門家以上に、森生さんがバフェットさんを語るに相応しい人だろうと思う点がひとつあります。それは、森生さんはバフェットさんの冗談交じりのたとえ話が持つおもしろさをよくわかる人と思うからです。バフェットさんはユーモア好きな方なのですが、どうも彼特有のユーモアはあまりよく理解されていないようです。ところがある時森生さんは彼のユーモラスな発言をゲラゲラ笑いながら私に話してくれたことがあります。そのことは彼女のマンガの中でも取り上げられているのですが、つまり、私は、森生さんはバフェットさんに通じる感性を持ち合わせている人なのではないかと思うのです。こうした感性を共有せずして投資のことや株の話ばかりしたところでそれはバフェットさんの本質を理解しての発言とは言えないでしょう。

バフェットさんのユーモアとは? 例えば、私が気に入っているものにこんなのがあります。

"Rule No. 1: Never lose money. Rule No. 2: Never forget rule No. 1."

<成功法則その1: 絶対にお金を失くすようなことをしてはならない。成功法則その2: 絶対に成功法則その1を忘れてはならない。>

"Wall Street is the only place that people ride to in a Rolls Royce to get advice from those who take the subway."

<ウォール街とは他ではあり得ない特別な所で、ロールスロイスに乗ってそこへやって来る人が、地下鉄に乗ってそこへやって来る人から金儲けについて教わる所なんだ。>

そして、森生さんがマンガで取り上げたのが次の発言。

"It's only when the tide goes out that you learn who's been swimming naked."

<潮が満ちてみんなが海で泳いでいる時にはわからないが、潮が引くとどの人が素っ裸で泳いでいたかわかるものだ。>

海に入って泳いでいる時には誰がどんな格好をしているかわかりませんね。素敵な水着を着けていようと、素っ裸でいようとわからないわけです。ところが水が引いてしまうと、どんな格好をしていたかがはっきりとわかる。素っ裸でみっともない格好をしていた人はそれが明らかになってしまうわけです。同じように、景気がよかったり、ブームが来ている時は誰もが波にのって同じ様にいい思いをしたりするでしょう。が、景気が悪かったり、ブームが去ってしまった時にこそ、本当にその人がどういうことをしてきたかが明らかになる、ということでしょう。ただ波に乗っていただけだったのか、或いは大きな波が来ている時も、絶えず次に備えて地道に努力を重ねていたのか、更に或いは、怪しいことをして誤魔化していただけなのか……。何れにしても、この発言は視覚的に非常に強烈なイメージがありますね。そして森生さんはそのイメージをそのままおもしろいマンガに描いてくれたのです。

ところが、残念なことに、森生さんのマンガが英語化されるに当って、このエピソードはカットされて、他の、説明的なバフェットさんの経歴に差し替えられていました。恐らくは編集者の方が、バフェットさんのユーモアとそこに含まれるマーケットや投資家の深い本質がわからなかったのでしょうかね。私はこういう言葉にこそバフェットさんの哲学——成功の秘密が隠されているように思うのですが。

そう言えば、バフェットさん自身は、人は自分の言っていることを実践しようとはしない、何故ならそれがあまりにも当たり前のことが多く、一方人はすぐに効果的にお金を儲けることができる方法を求めるからだ、というようなことも言っています。更に、「当たり前のこと」と言えば、人間というのは、簡単なことをわざわざ難しく考えようとするひねくれた傾向があるものだ、とも言っていますね。

昨日のブログで、バフェットさんの成功はキリスト教的宗教観、倫理観に支えられていると書きましたが、今日帰りに立ち寄った本屋でバフェットさんについて書かれた本を何冊か見てみましたら、やはりどの本にも、彼の哲学や理念(何れも英語では "philosophy")に重きを置いて書いてありましたね。やはり彼の成功は、敬虔なキリスト教的な普通の生活の上に成り立っているのですね。

投資投資と、日本でもネットトレーディングの発達で投資がブームになってますが、もともと投資を表す英語 "invest" とは「いい服を着せる」ということです。青年が社会に出るに当って、成功するようにと親がいい服を着せて送り出してあげたことに由来する言葉です。そういう、愛し育てるという感覚が投資には必要なようです。何れその青年は成功して親孝行することになるかもしれない。しかし、親は親孝行してもらうことを期待して子供を育て、お金をかけるわけではありませんね。投資にも同じことが言えるようです。

バフェットさんの言葉。

"If a business does well, the stock eventually follows."

<事業がうまくいくようにすること。事業がうまく行っていれば、自然と株価は上がるものだ。>

今回のバフェットさんのニュースが、何故投資をするのか、どこに投資をしようとするのかを、もう一度考え直す機会になればと思うのです。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 29, 2006

やっぱりバフェットさんはスゴイ!〜アメリカ的お金儲けとは?

つい先日、有名な投資家のウォーレン・バフェットさんが、自己の資産の85%に当る440億ドルを寄附したというニュースが流れ、注目を集めました。私には、森生文乃さんマンガでお馴染みで、親しみを覚える人であり、このニュースの映像を見ていて、「さすが!」と微笑ましく思ったのでした。世界第2位の富豪のバフェットさんが世界第1位の富豪のビル・ゲイツさんの財団に寄附したというのは、見る人によっては、金持ち同士がつるんでいるようでおもしろくないかもしれませんが、どうしてどうして! ビル・ゲイツさんもその資産をいろいろと寄附している人ですが、実は、これはいかにもアメリカ的、資本主義的な行動なのです。

社会学者のマックス・ヴェーバーは有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、アメリカという国を創った清教徒たちが、彼らの信仰心に基づき、他人の幸せのためにまじめに働いたことが資本主義を育てたということを明らかにしました。つまり、まじめに働けば自然とお金は稼げるのであり、その稼いだお金を他の人たちに再分配することが、神への感謝の表現であったというのです。こうして、本来資本主義とはキリスト教と一体のものであるわけです。

前にも書きましたが、バフェットさんは、どうやったらそんなに儲かるのか、どうやったら値上がりする株を見分けられるのかとの質問に、自分はただ、これから世の中の役に立つことをやっているのに過小評価されている企業に投資しているだけだ、と答えています。つまり、彼の投資の背景にあるのは、お金儲けということよりも、世の中の役に立つ、或いは世の中に必要な事業を育てようという気持ちであると言えます。それはきっと彼の宗教観や倫理観から来ているものなのでしょう。私が寄附のニュースに微笑ましく思ったのは、その寄附という行為に彼の一貫した生き方を見たからです。しかも、母数が大きいとは言え、資産の85%というのは、やっぱりスゴイ。儲けたもののうち、自分に必要のない分は全て神に返す、ということなのではないでしょうか。日本のお金持ちでこんな寄附の仕方をする人はいないんじゃないでしょうか。

日本のお金持ち、と書いてすぐに思い出すのが最近の堀江さんや村上さんの事件ですね。私たちがこの人たちの事件を不愉快に思うのは、実は、彼らのお金儲けの背景に、バフェットさんのような倫理観や宗教観を感じないからではないでしょうか。堀江さんに至っては、愛すらお金で買えるというような発言をしていましたね。いえ、堀江さんや村上さんに限らず、私たち日本人はお金儲けとか、資本主義という時に、どれだけこうした精神的なことを意識しているでしょう。私たちはアメリカ的資本主義という時に、非常にクールでドライなイメージを抱いてしまいますが、実はアメリカ的資本主義とはこうしてキリスト教的宗教観、倫理観と一体のものであることを忘れてはならないと思います。そして、そういう精神的崇高さを忘れたお金儲けというのは、結局は人の共感を得られないのではないでしょうか。

村上さんの事件でいろいろ騒がれている時期に伝わってきたこのニュースはどこかさわやかであり、同じ投資家でありながらその人物の大きさの違いをまざまざと見せつけられたような気がします。

最後に、バフェットさんのことをもっと知りたいという方のために、先程の森生さんの本をご紹介しておきます。森生文乃著『マンガ ウォーレン・バフェット〜世界一おもしろい投資家の世界一もうかる成功のルール』(パンローリング 2003)です。私が最初にバフェットさんのことを知ったのは日経かどこかから出ている本ででしたが、森生さんのマンガはバフェットさんの魅力を知るには最適だと思います。それかあらぬか、好評のあまり海外で英語版も出版されています。お薦めです。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 27, 2006

関岡英之著『拒否できない日本』

先日、佐々木俊尚さんの『グーグル Google——既存のビジネスを破壊する』(文春新書 2006)について触れましたが、この時同時に買ったのが関岡英之著『拒否できない日本——アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書 2004)です。この本は、「文藝春秋」2005年12月号に「警告レポート・奪われる日本——『年次改革要望書』米国の日本改造計画」として著者の関岡さんが書いている記事で知って以来、ずっと気にはなっていたものの、これまで読む機会を逸してしまっていたものです。昨年の「文藝春秋」の記事では、保険や医療制度の分野について詳しく論じられていますが、その1年半前に出た本書の方は、建築士の資格の国際化という話に始まり、阪神・淡路大震災後に行なわれた建築基準法改正の話から問題の核心へと迫っていきます。私は一気に引き込まれました。何故なら——。

今年の初めにある会合で関岡さんの「文藝春秋」の記事とアメリカの「対日年次改革要望書」について知った私は、その後実際にアメリカ大使館のページにアクセスして驚きました。外交文書として英文でこっそりと提供されてるかと思いきや、実際には英文版は少なく、何と日本語に翻訳されたものが堂々と掲載されているのです。私が最初見た時は1996年辺りからあったように思いますが、現在は1998年から2005年まで8年分を見ることができます。

規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣行に関する要望書(全文)(1998年10月7日)
規制撤廃、競争政策、透明性及びその他の政府慣行に関する要望書(1999年10月6日)
2000年規制改革要望書(2000年10月12日)
2001年規制改革要望書(2001年10月14日)
2002年規制改革要望書(2002年10月23日)
2003年規制改革要望書(2003年10月24日)
2004年規制改革要望書(2004年10月14日)
日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書(2005年12月7日)

更に驚いたのはその内容の細かさです。とにかく多くの分野にわたっていて、私自身が詳しくないものについては一体何のことなのかわからないものもありましたが、その中で興味を引いたのが建築に関する部分です。私は建築の専門家ではありませんが、その内容を読めば、つまりは現行法では日本の伝統に基づいて建築の方法、材料の種類などが細かく決められているのを撤廃し、アメリカ式の工法、アメリカの材料がもっと日本に流れ込んでくるのを促進するのが目的であるのは見てとれました。そして同時に感じたのは、いくら旧態依然としたところがあろうと、この要求をそのまま呑んでしまったら、日本の建築は文字通り骨抜きになる、危険な建物が増えるのではないかという不安だったのです。

それはちょうど耐震偽装疑惑事件が連日報じられている時期でもあり、私には何故か漠然とですが、この要望書と事件とが、もやもやとはっきりとしないながらも、どこかつながっているような漠然とした感覚が生まれたのです。

このことはそれで終っていたのですが、今回関岡さんの本を読んでそれがはっきりとしました。阪神・淡路大震災で建築基準が見直され、法改正があったのはどなたもご存知でしょう。そして当然、誰もが、更に厳しい基準で建物が建てられるようになった筈と期待し、それを当然の前提と考えていたはずです。震災以降に建てられたものならまずは安心だろうと。ところが例の偽装事件でした。一体どういうことなのでしょう?

本書の中で関岡さんは、確かに建築基準法は改正されたが、それは規制緩和の方向で改正されたと述べていらっしゃいます。つまり、まず大きなところでは、それまでの、建築の建て方(仕様)が細かく決められた「仕様規定」から、建築材料の性能だけと決めた「性能規定」へと規定の仕方が変わったというのです。もっと簡単に言うと、それまでは「こうでなければ建ててはいけない」という厳しい基準だったのが、「こうであればよい」というより緩やかなものに変わったということでしょうか。そしてその性能の基準は「国民の生命、健康、財産の保護のため必要最低限のもの」とするということなのです。あの震災で、あれだけの犠牲を出した後であれば、ここは「最大限」でなければならないはずですが、何故か「最低限」になっているのです。これはつまり、私も不安を感じた、あの要望書の内容、アメリカの材料が入って来るのを促進するために、建築基準法の基準をより緩やかにして規制を撤廃しろとしたあの要望書の内容に応えての改正であって、震災はその改正の絶好の機会であったに過ぎないということです。であれば、あの時亡くなった7,000人にも及ぶ方々の生命、犠牲は、全く浮かばれないことになります。基準が緩和され、規制が緩和され、効率だけが求められてその後建てられた建物に危険がつきまとっていたのは当然かもしれません。あの事件は起こるべくして起きたのだと言えないでしょうか。そうなって来ると、確かに国民を騙したことは許せないとしても、あの疑惑の中心となった人たちも、ある意味では国の方針に沿ってその路線を邁進してきただけ、と言えるのかもしれません。あの人たちだけを詐欺罪で裁いて、それで終る話ではどうもないようです。

あまりに衝撃的な内容だったので、長くなってしまいましたが、実は、本書に私はある共感を覚えながら読んでいました。それは、著者は時折、その時代時代で自分がどのような生活なり仕事をしていたか、そこでどのように感じていたかに触れているのですが、それが私自身の経験や感覚と合うのです。気になって奥付で著者の略歴を確認すると、私より3歳年上の方でした。やっぱり同じ世代の方だったか、と納得しました。先日も書きましたが、ちょうど大学生の頃、ミルトン・フリードマンが『選択の自由』を引っさげて登場し、経済の世界に新鮮な「自由」の息吹きを吹き込み、それを実現すべくレーガン政権、そして呼応するように中曽根政権がスタートし、自由化と効率化の時代が始まったのです。当時若かった私はその「自由」という言葉に囚われてこれを推進することが日本全体にとっても個人にとってもいいことだと思っていました。企業間の競争がよりよい財やサービスをより安価なコストで生み出し、国民はそれを享受できると。本書の著者もそのようであったようです。社会人となった時にバブルが到来、自由化がもたらす繁栄の時代が来たものと錯覚していました。が、それは突然崩壊しました。そうして初めて気づくのです。競争に負けた企業がどうなるのか。そしてその企業で働いていた人たちはどうなるのか。私たちは、自由競争は国民の利益になるとアメリカなどから説得される時、その消費者である国民が、実は同時に企業や農水産業で働く産業人であることを忘れているのです。競争によって負け組企業が出てくるということは、自由競争による利益を享受できない国民もまた生み出されるということです。

こうして、この本を読みながら、著者が辿る日米関係の歴史は、著者と同じくこの時代を生きてきた自分の歴史を振り返るようでもありました。そして、今のこの時代の原点となったのがあのフリードマンの理論であったことを当然の帰結として思い起すのです。果たして、本書もその最後はフリードマンとその影響で結ばれていました。つい先日そのことを書いたばかりでしたので、我が意を得たり、という感じで嬉しく思いました。

このところ書いていること、BBCの「幸福の公式」やグーグルのこと、ケインズ政策やそれを批判してのフリードマンのことなど、一見ランダムな話題のようでありながら、本書を読んで実はこれらが全て関連していたことに気づきました。それはつまり、全ての国民が幸せに暮らしていけるような社会、国創りということです。本来日本とはそのような国だったのではないでしょうか。競争して他人を蹴落としたり、自分が不利益を被ったらやたらと訴えたりするのは本来の日本人の気質には合っていないのではないでしょうか。少なくともこの10年、日本はアメリカの要望書に沿って歩んできてしまったようです。が、本当にそれで私たち一人一人が、全ての日本国民が幸せになれるのかどうか。折角堂々と日本語で公開されているのですから、私たちはこの要望書をよくウォッチして、その要求が何を意味しているのか考えていく必要があると思います。もう、建築基準法の時のような愚を犯してはならないのです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 25, 2006

忘れられた「厚生経済学」

先日ご紹介したBBCの「幸せの公式」で、「最大多数の最大幸福」というベンサムの言葉を久し振りに聞いて、ピグーの厚生経済学を思い出しました。同じ番組で、自分と他人との間に格差を感じることが自分を幸せでないと思う要因になっており、これを感じさせないようにするにはお金をたくさん持っている人から税金をたくさんとってそれをより持っていない人に再分配すべきだとの議論が出てきた時には、これは今更のようなケインズ的社会主義的政策ではないか、と驚いてしまいました。

しかし、この驚きはやがてある感慨へと変わりました。何故かと言えば、この20年、イギリスでもアメリカでも日本でも、「小さな政府」と「自由市場経済」の実現に向けて政府は努力を重ねてきたからです。それは言い換えればケインズ政策の放棄ということだからです。

今から25年ほど前に、ミルトン・フリードマンの『選択の自由』という本が出版され、アメリカは勿論、日本でも大反響を呼びました。この本は要するに、政府が関与している事業は効率が悪く、民間の自由競争に任せた方が効率がよくなり、コストも下がり、それらのサービスを利用する国民の利益になる、という議論のもので、当時大学生の私は、その明解な論理にスカッとするものを覚えました。経済のことは勉強しなければいけないのだけれども、日本の経済学者が書いた入門書をどれだけ読んでも、結局何が書いてあるのかよくわからなかったのでした。そんな時に読んだこのフリードマンの本は、高度な議論を実にわかりやすく述べていて、しかも、そう、フリードマンはレーガン政権のブレーンでもありましたから、アメリカの経済学者は何てすごいんだろうと思いました。その研究の成果を実際の政権に協力して具体的なものとしようとするだけでなく、それが何故必要なのかを一般の国民にわかりやすく説明し、納得させる力があるからでした。この明解さと「自由」という言葉に、私も諸手を挙げて称讃したものでした。

そう、その頃アメリカ大統領になったレーガンのレーガノミクスと呼ばれた政策は、実はこのフリードマンの理論を現実のものとしようとしていたのでした。このレーガン大統領と同時期の日本の中曽根首相、イギリスのサッチャー首相とも、この方向でそれぞれの国の政策を進めて行きました。現在の小泉首相が言う「市場原理」、「民間にできることは民間に」は、実際にはこの時期の路線をそのまま踏襲していると言ってもよいでしょう。

ところでこのフリードマン理論、或いはレーガノミクス、或いは「小さな政府」、「市場原理」を実現するに当って、当然切り捨てられ、忘れられたものがあります。それがピグーなどが提唱した「厚生経済学」です。当時の経済学の教科書には、必ずと言っていい程この「厚生経済学」についての記述がありました。それはつまり、民間の自由競争による市場原理に任せておけば、確かに、儲かる分野の事業についてはコストが下がり、効率も上がるが、儲からない分野の事業には民間は敢えて参入しようとはしない。この種の事業には例えば、鉄道、航空、郵便、水道、エネルギー、医療、教育などの分野が挙げられ、簡単な話、過疎の村などに鉄道を引いても利用する人が少ないので効率が悪く、当然赤字になるので民間ならば撤退せざるを得ない。しかし、そこには鉄道を必要とする住民が少ないとは言え確かにいるのです。この人たちを切ってはいけない。従って、このような国民の生活と福利を支える事業については民間に任せずに国が行なうべきであり、そのためには赤字が出てもやむを得ない——これらの事業に限っては「赤字を出してもいい」というのがこの厚生経済学の思想であり、ピグーの弟子でもあるケインズが打ち出した政策はその路線を踏襲していると言えます。

市場原理が行き着く先のバブルの崩壊、それが前世紀初頭の世界恐慌を起し、崩壊した経済と国民の生活を再生すべくスタートしたのがケインズ政策でした。が、国民の生活を守るという名目の下に、政府はそれ自体が巨大な事業体となり、その運営のために莫大な資金を必要とするようになります。増税に次ぐ増税。当然、国民の不満も増大していきます。このケインズ政策の見直しとして登場したのがフリードマンの理論でした。

この理論は実は大きなパラダイムシフトであったと言えます。国民の福利のためには「赤字を出してもよい」であったのが、「赤字は出してはいけない」となった。この影響はすぐに日本にも表れました。国力増強のために日本の隅々に張り巡らされた国鉄は赤字の原因の最も大きなものの一つであり、当時の中曽根首相はここにメスを入れたのです。国鉄は解体され、民間のJRという会社となりました。赤字は出してはいけないので、当然利用の少ない路線は次々と廃止となっていったのはご存知の通りです。日航も民間となりました。現在の小泉首相は郵便を民営化。効率の悪いものはどんどん切り捨てられていくようになったのです。

レーガノミクスの時代にもう一つ私に衝撃を与えた本があります。レスター・サローの『ゼロ・サム社会』です。サローはゲームの理論を応用して、つまり、誰かの利益は他の誰かの不利益になっており、社会の利益の総和は0になる、と言ってのけたのです。そのような状況の中で政府は誰の利益を代表して政策を打てばよいのか? 声が大きい人とお金をたくさん出してくれる人以外にないではないか。ここで、ベンサムの「最大幸福」は要するに多数決的なところで決めざるを得ず、少数派は不利益を被っても仕方がない、それは必要悪であると結論づけられてしまったのです。

フリードマンとサローの理論に従って、アメリカも日本もイギリスも、自由の名の下に実は多くの犠牲を出しながら効率を追求してきたのがここ20年ほどの政策と言えます。小泉政権が発足した時、その自由な改革のイメージに私たちは期待しましたが、結局それは勝者と敗者を国民の中につくり、少数派を切り捨てていく政策を許してしまうことだったのです。「格差社会」はある意味で私たち自身が招いた結果だったのかもしれません。

しかし、ベンサムが「最大多数の最大幸福」と言った時、それはサローのように「ゼロ・サム」の前提であったのでしょうか。否、だと私は思います。それは寧ろ、ブータンで実現されているGNH、つまり「国民総幸福」を増大させようということだったのではないかと思うのです。一人も不幸な人がいない国を創る、それこそが本来目指すべき方向だったのではないのでしょうか。

ここ数日述べてきた昨今のインターネットの技術は、実は誰もが主役で誰もがハッピーになれる社会のしくみを生み出す潜在性を秘めていると思います。こういう時代に「ゼロ・サム」でものを考えるというのはもう時代遅れなんではないでしょうか。

自由市場経済を追求してきたアメリカ、日本、イギリスの現政権のリーダーが今や何れも生彩を欠いて見えるのは、最早彼らの政策が時代遅れになってしまったからではないでしょうか。このままでは国民は幸せにはなれない。そして全ての国民が求めているのは結局のところ幸せな生活なのです。BBCの番組で一見時代に逆行するような税制度の話が出てきたのは当然かもしれません。

この20年ずっと忘れられていた厚生経済学を、もう一度私たちは振り返る必要があるのかもしれません。


| | Comments (0) | TrackBack (1)

September 10, 2005

衆議院選挙の前夜に

明日は衆議院議員選挙の日ですね。テレビを見ていると今回の選挙は今までにない盛り上がりを見せているようですが、不思議なことに土曜日の今日家にいて、派手な選挙宣伝の声を聞くことはなかったのです。最近はあまり宣伝カーで候補者の名前と「お願いします」を連呼するということはなくなったのでしょうか。あとで知ったのですが、どうも近くの駅にはどこかの党首が来ていたようですし、私も同じく駅頭で別の候補者を見かけました。宣伝カーで街中を回るより、駅頭の人が集まるところでじっくり語るように候補者の選挙活動のスタイルも変わってきたのでしょうか。

こうして盛り上がっていると言われている今回の選挙ですが、逆に関心がない、という人もいるでしょう。政治に興味がないと言う人、誰にしたらいいのか、何が問題になっているのかよくわからないという人、自分たちが投票したところで政治は何も変わらない、誰が当選しても同じ、という人などなど……。或いは自分に政治は関係ないと言う人もいるかもしれません。

が、本当に関係ないのでしょうか? 自分は自由に生きているのだ、と言ってみたところで、この日本という国に生きている以上、国の法律や制度の影響を受けずにはいられないのです。一番わかりやすいのは税制でしょう。国全体の利益、福祉を理由に所得税が大幅に増税されたら、働いても働いてもそれは自分のお金になりません。或いは消費税が増税されれば、今ほど気軽にものを買えなくなってしまうかもしれません。こうしたことが私たちのライフスタイルに影響を与えないはずがありません。

自分はどのように生きていきたいのか。或いは自分の愛する人とどのような家庭を築いていこうとするのか。それを真剣に考えるならば、少しでもその自分のライフスタイルを実現してくれそうな政治家や政党を選ばなければなりません。どうせ変わらないからと選挙を棄権することは、自分たちの人生を捨てて、他人の手に委ねてしまうのと同じことです。明日選挙に行くのを考えていないという人には、是非、自分のこととして、自分の未来を掴むために、是非参加してほしいものと思います。

実際には今回の選挙は誰を選べばいいのか、難しいと言えますね。ただ、小泉首相が、あのように総論賛成各論反対の自民党議員を公認せずに追い出してしまったことを考えると、結局は一人一人の議員の行動は党の影響下にあるということでしょう。とすれば、現実的にはどの政党に賭けるか、というのが今回の選挙ということになるでしょうか。自らの強い信念をどこまでも押し通そうとする小泉自民党か、政権交代によって国民のための政治を取り戻せると訴える民主党か、或いは暮らしの充実と平和を叫ぶ共産党や社民党か、それとも……。私も地元の候補者のホームページや各党のマニフェスト等を見ながら今悩んでいるところであります。

ところで、明日の衆議院議員選挙にはちょっとした楽しみがあるのをご存じでしょうか。選挙会場に一番に到着した人は、投票箱の中身を確認する権利があるのです。一番に行くと、中身が空かどうか確認して下さいと言われ、確認することになるのです。その確認を終わってから投票、ということになります。これがしたいばっかりに早くから並んでいる人がいると聞いています。私も一度やってみたいと思っているのですが……どうも日曜の朝は早起きできないようです。

それともう一つ、明日の選挙会場では小選挙区、比例区の衆議院議員選挙に加えて、最高裁判所裁判官の国民審査というのがあります。これは最高裁判所の裁判官の名前が書いてある紙を渡され、もし罷免したい裁判官がいたら、その裁判官の氏名の名前の上にある欄に「×」をつける、というもので、国民が直接に国の機関に携わる人の人事権を行使できる、他の国にも例のないユニークな制度です。

と言っても、日本の場合は、最高裁の裁判官の名前なんて殆ど知らないのが普通ですし、ましてどんな経歴があり、どんな事件を担当したかなどわかりませんから、別に辞めさせる理由がない場合は何も書かなくていいのです。が、私がこの制度について知ったのは高校の時でしたが、その時社会の先生が教えてくれたのは、この紙を渡された人は何か書かなければいけないと思って、でもわからないので大抵は一番最初に名前が載っている人につけることが多い、従って、リストの最初に名前が載った人は罷免される可能性が高くなる、ということでした。もしかしたらその人は一番いい裁判官かもしれないのに……。なのでわからなければこの紙は何も書かずにおくことにしましょう。

この国民審査制度、何故最高裁の裁判官だけなのか、きっとそれなりに法源があるのでしょうが、どうせなら行政の長である内閣総理大臣(首相)や、国会を運営する衆参両院の議長などにもあると政治はもっとスリリングでおもしろくなるのではないかと思ったりもします。(この制度について、そして今回リストに名前が載る人の経歴について「忘れられた一票」というページに詳しく書かれていますので、ご関心のある方はどうぞ。)

そんなこんなの衆議院総選挙ですが、果たしてどうなるのでしょうか。開始まであと7時間余り。自分の人生の為に、必ず行きましょう。

それでは、また。

| | Comments (2) | TrackBack (0)