昨日のスコット・ペックさんの悪の心理学の話の続きです。
『平気でうそをつく人たち』(草思社 1996)の中で、いくつかの典型的なケースを挙げた後、最後の第6章を「危険と希望」というタイトルの下に書いています。
「……われわれが悪という事象を科学的に究明しなかった最大の理由は、おそらく、その結果を恐れてのことであったと考えられる。また、それを恐れるだけの十分な理由がある。悪の心理学の発展には、特有の、真に恐ろしい危険が伴うものである。本書は、そうした危険と、悪の心理学を発展させなかったときに生じる危険とをはかりにかけた場合、後者の危険性のほうがより大きいとの前提に立って書かれたものである。とはいえ、悪という事象を科学的吟味の対象とする試みに加わろうとする者は、まず第一に、そうした試みそのものが悪を引き起こす可能性を持ったものである、ということを深く考えたうえで行動すべきである。」(前掲書 P312)
この文章の後、著者は「道徳的判断に伴う危険性」と「科学的権威による偽装の危険性」との2つの場合について詳述していますが、私がぞっとしたのは後者、科学的権威による偽装、の方です。ペックさんは、私たちが科学に対し、それ以上の権威を与えていることの危険性を指摘しています。その理由として、科学の限界を理解している人間がほとんどいないことと、権威全般に対して私たちがあまりにも依存しているという事実を挙げています。
科学的事実としてもてはやされていることが、実は一部の科学者たちが今現在信じているに過ぎない、私たちは科学的事実を真理と見なすように習慣づけられているものの、実は今身近にあるものの中で最も真理に近いと、多くの科学者たちが判断しているものに過ぎない、ということを指摘した後、著者は、にも拘らず、私たち一般大衆は科学者の断定に追従したがっている、と書いています。
「われわれは、知的怠惰から、科学的思考というものが趣味や好みと同様にそのときの流行に左右されるものだ、ということを忘れ去っている。科学の権威筋が現在口にしている意見は、最新のものというだけであって、けっして最終的、決定的なものではない。われわれ一般大衆は、自分の身の安全のためにも、科学者や科学者の断定することに疑念を抱くべきであり、また、そうすべき責任を負っている。別の言い方をするならば、われわれは、けっして、自分自身の個人的リーダーシップを放棄してはならないのである。」(前掲書 P317)
そして、その後、科学に対するこうした盲目的な追従が、いかに危険な傾向をもたらすかについても書いています。
「科学の乱用がもたらす最も深刻な問題は、科学的真理を装って個人的見解を公言する科学者自身よりも、科学的発見や科学的概念をあやしげな目的に利用する一般大衆――業界、政府、それに情報に乏しい個人――に起因するものである。」(前掲書 P318)
科学的な根拠があるからと、科学の名の下に裁きを行なうものも、また一般の、「普通の」人々である私たちが持つ危険な傾向です。
「……悪に関する科学的知識を一般の人が手にしたときにどういうことが怒るか、その光景は想像するだに恐ろしいものである。たとえば、邪悪な人間を特定できるような心理テストが開発されたとする。この種のテストを学術的目的以外の目的に利用したいと考えている人は多いはずである。好ましくない入学志願者をふるい分けたいと考えている学校当局者、有罪か無罪かの判定を下したいと考えている裁判官、といった人たちがこれを利用すると考えられる。また、日常生活においても、しゅうとめ、雇い主、あるいは敵対関係にある人間に邪悪性の兆候や症状を見つけだそうとする人が現れ、さっそく、自分の気に入らない相手を公に、あるいは個人的に抹殺するためにそうした汚名を利用するとも考えられる。」(前掲書 P319)
私がぞっとしたのはこのくだりなのです。瞬間、私は今年読み直した永井豪さんの『デビルマン』というマンガを思い出しました。このマンガは私が子供の頃テレビ・アニメとして放映されていたものでしたが、放送終了後に完結した原作のマンガは壮絶を極めるエンディングとなっておりました。アニメの方は、魔界から訪れては人間を襲うデーモンたちから、そのデーモンと合体した人間不動明がデビルマンとしてデーモンと戦い、人間を救う、というストーリーでしたが、原作も、最初のその路線で進むものの、途中から様相が変ってきます。悪魔の存在が科学的に証明され、科学者たちの提言に基づき、悪魔狩りが行なわれはじめるのです。こうして普通の人たちが隣人や家族を疑い始め、人間が人間を殺戮していくのです。その過程でデビルマンは悩むのです。自分は人間を脅かしているのはデーモンだと思っていたが、実は、同じ人間の中にこそ悪魔は潜んでいるのではないか、と。
この本の中で、著者のペックさんが何故何度も「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」というマタイ伝の文句を繰り返したのかわかる気がします。私たちはともすれば、自分には何も欠点がないと、従って人を裁く権利があるのだと思ってしまう傾向があるのです。そしてそのようにして裁くこと自体がまた別の悪を生んでいくのです。科学であれ何であれ、権威に追従し、権威がそのように言ってるのだからと、自分の考えたり判断したりすることを怠ること自体が悪なのです。自分は本当に最善を尽くせたか、自分自身に正直であったかを問うならば、私たちはみな罪人である、ということを忘れてはならないのだと思います。
「普通」だと思っている自分こそが、いつ悪に手を貸すことになるのかわからないのです。ペックさんが挙げているケースには、自分の子供の問題で現れた教養ある夫婦の話が出てきます。彼らは、結局のところはペックさんの指示には従わず、寧ろ反対の処置をとった上で、「先生のご指導に従ってこれこれこのようにしました。」という手紙を送りつけてきたというのです。著者は気づきます。この人たちにとっては、子供の問題に関して、専門家の指導を受けに行き、それに基づいて具体的に行動した、という事実だけが必要なのだと。そのようにすれば、世間的にはいい親、子供の教育に熱心な親だと見られるからであって、実際に子供が立ち直れるかどうかには関心がないのだと。
私たちは誰でも「善人」、「いい人」でありたいと願っています。他人からはよく思われたいと思うのは当然のことです。だからといって、欠点や悪いところがないと思い込むのは危険だということです。自らの欠点や悪いところを認めずに、「善人」であろうと努力することの中から私たちは「邪悪」な存在へとなっていってしまうようです。
勿論、私たちは「善人」であるように努力はしなければなりませんが、同時に、常にあのマタイ伝の言葉を忘れずに、自分の欠点や悪と向き合うことができなければならない、ということなのでしょう。
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