March 14, 2009

【告知】インターネット中継ライブやります!

さて、昨日少し触れましたが、
セカンドライフからインターネットを通じてRLに配信する
インターネット中継ライブ+公開録画を以下の日程で行います。

■Hiroshi Kumaki インターネット中継ライブ
・日時:2009年3月14日(土)24:00〜24:45
・SL内会場:Lifebound Cafe, Fanghammer
      http://slurl.com/secondlife/Fanghammer/24/14/22/
・中継URL:http://www.ustream.tv/channel/559811
      http://lifebound.slmame.com/

今回はとりあえず一人で全部やるので、
音を出しながら、
アバターを動かしながら、
はたまたテロップ出したりしながら、
と、いつもより更に忙しくなりますので、
ハプニング、トラブル必至! という感じですが、
まぁ、笑って頂けたら。。。^^;

セカンドライフ内の会場にいらしても
WEBでご覧になっててもいいので
是非ご遊びに来て頂けると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。w

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March 12, 2009

一年間の休暇

「二年間の休暇」というのはジュール・ヴェルヌの名作
『十五少年漂流記』の原題ですが、
前回このブログを書いてからちょうど1年が経ちました。
大変ご無沙汰してます、タンゴ黒猫です。

この1年はシステム開発の仕事で地方の某所に缶詰になったり、
それが終わったと思ったら今度は月250時間以上働く日が続いたり……。
そして何よりボランティア活動やセカンドライフの方も忙しくなったりと
なかなかこのブログに向かう気持ちになれないのでした。

これからも恐らくは、毎日書くものとしては、
「高麗恵子WEBサロン」への書き込みと、
セカンドライフのブログ「Hiroshi Kumaki's Lifebound Blog」
中心になっていくと思います。
それでも、WEBサロンの方は高麗恵子さんのサイトで
書き込む内容の方向(趣旨)も決まっていますし、
またセカンドライフだけで生きているわけでもないので、
そのどちらにも属さない、つぶやきのようなものは
引き続きこのブログに書いていこうと思っています。

WEBサロンは、世界平和ということを具体的に実現していく場として参加しています。
ただ、私を含め皆ハンドルネームで書いていますので、
どれが私かはわからないかもしれませんね。
いや、案外わかるかな。w

また、セカンドライフはこのブログでも以前書きましたが、
あらゆる制約——性別、職業、住んでいる場所、人種、
そして肉体的な限界も——を超えて
やりたい、やってみたいと思うことを何でもやれる環境であり、
企業にとっては時間と費用を大幅に削減し、
より創造的な企業活動を可能にするツールでもあります。
そのような環境で生まれたものが、現実によりより未来を
人類全体にとって明るい未来を創ると考え
いろんな実験に取り組んでいるところです。

とは言え、昨年はイベント屋(ミュージシャン)として
いろんなイベントに参加してやたらと忙しい1年でしたので、
今年はもっとのんびりと、いろんなものを生み出していきたいと考えています。
(昨年の活動についてはこちら。)
最近ではセカンドライフ内のイベントを
インターネットで生中継する実験に取り組んでいて
今週末にインターネット中継ライブを行う予定です。
詳しくはまたここでお伝えしますね。

そんなこんないろいろありますけれども、
またちょこちょこ書いていきますので、
引き続きどうぞよろしくお願いします。
ありがとうございます。

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March 13, 2008

「ん」の話(2)

昨日は日本語では「ん」の音がひとつの音節を構成していて、それが日本語の特徴であることについて触れたのだけれども、実は「ん」にはもう一つ秘密があります。それは「ん」が表している音を発音記号やアルファベットで表現すると、一つの音ではない、ということです。つまり、「ラ」行の音が「L」にもなり「R」にもなったりするように、「ん」の音にもバリエーションがあるのです。このことを殆どの日本人は気づかずに「ん」を使っているのだけれども、時々その影響がかなの振り方に出て来るので明らかになります。

普通、「ん」の後に何も続かない場合は、実はローマ字で当てられている「n」という子音ではなく、前の母音がそのまま鼻に引っかかった音になります。「さん(三)」とか「ほん(本)」、「パン」などという場合で、ポルトガル語で「São Paulo(サンパウロ)」とか「Lisbõa(リスボン)」という時の「ン」と同じ音です。強いてローマ字で表記すると、それぞれ「saã(さん)」、「hoõ(ほん)」、「paã(パン)」となります。

それから、次の音が「ナ」行や「タ」行など、舌が口蓋に接する音の場合、この時が「n」の音になります。「あんない(案内)」や「かんどう(感動)」という時の音ですね。この時、次の音が母音の場合は、その母音に影響して、続く母音を「ナ」行の音節にしてしまう傾向があります。「音」は普通「オン」と発音しますが、「観音様」という時は、「観(カン)」の「ン」の音が「オン」に影響して「カンノン」という発音になってしまいます。同じように、「王」は「オウ」ですが、「山王神社」という時は「山(サン)」の「ン」が影響して「サンノウ」となります。

私の知合いで「華音」と書いて「カノン」と読ませる人がいます。「観音様」の連想からでしょうが、「音」を「ノン」と読むわけではないのです。前の音が「ン」で終わっているからその影響で「ノン」となっているだけなのです。前の音が「カ」の場合は「音」は「オン」のままですね。まぁ、人の名前や店の名前は視覚と音から来るイメージが大事なのでしょうから、こんなところで国語的、言語学的な分析をしても仕方がないのでしょうが。店の名前と書いたついでに思い出すのが「キャノン」ですが、あれはもともと「観音カメラ」なのだそうで、「観音」をローマ字にした時に「canon」と「n」を重ねずに「カン—オン」となっているのは、逆に、さすがぁ、わかってるぅー、という感じがしますね。

さてもう一つ。「ン」の次に「マ」行、「パ」行、「バ」行など、唇を閉じて発音する音が続く時は、今度は「m」の音になります。「サンマ」や「しんぶん(新聞)」という時の音です。そう言えば、朝日新聞は英語では「The Asahi Shimbun」と表記していますね。

更に更に、「ン」の次に「カ」行、「ガ」行が来る時は、いわゆる「ng」の音になります。「あんがい(案外)」や「はんこ(判子)」という場合です。

このように見てくると、

「さん(三)」
「さんない(三内丸山遺跡)」
「さんま」
「さんかい(三階)」

と、同じように「さん」と書いても全部違う発音なのです。それを全部同じ「ん」という文字が表していて、しかもちゃんと一つの音節を構成している。「ん」はそれだけでは音節を構成できない英語や中国語などの「n」や「ng」の音に比べると、何と豊かで大きな存在なのだろうと思うのです。

携帯メールで「ん」を打てなくなって、その偉大さを改めて知らされたタンゴ黒猫のつぶやきでした。


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March 12, 2008

「ん』の話(1)

携帯が壊れた。水に濡らしてしまって、何とか動いてはいるし、機能もしているが動作が不安定なのだ。早く買い替えないとそのうちデータも拾えなくなるんだろうな。何と言ってもひどかったのが水に濡れた直後で、「0」のキー、つまり「わをん」などを入力すぐキーが反応しなくなったのには参った。しばらく使っているとわかるが、数字だったら「0」を何と多く日頃使っていることか! それから何と多く「ん」という字を使っていることか! どんなメールを打とうとしても、この2つは必ずといっていい程出て来るので、困った困った。とりあえず「0」の方は過去のメールからコピーしてきて「ぜろ」で「0」と「000」を変換できるようにして、「ん」の方は、何とか訓読みがあるものはそれで逃げる——例えば「ほん(本)」は「もと」と入力するようにして——ものの、案外、漢語しかないもの、例えば「かんじる」の「感」などはこれ以外読みようがないので困った困った。

ところで、そんな日が続くと、日頃何とも思っていない「ん」のありがたさがわかるものである。と同時に、「ん」がない頃はやっぱり大変だったんだろうなぁ、と古(いにしえ)の人々の文筆生活に思いを馳せたりするのだ。

というのも、万葉仮名から「ひらがな」「カタカナ」が生まれた当初は「ん」や「ン」の字はなかったのだ。それで、古文では「案内」と書いて「あんない」ではなく「あない」なのですよ、と習うのである。しかし、よくよく考えてみると、「ん」の字がないから「あない」と書くだけで、実際には「あんない」と発音していたのではないか? では逆に、「あんない」と発音していたのなら、何故「ん」の字がないのか?

それは、ひらがなにしてもカタカナにしても元は漢字であり、漢字では「ん」に当たる音である「n」や「ng」はそれだけで音節を構成しないからだ。音節とは、簡単に言ってしまうと、その言語で一音と感じられる音の単位、ということになる。通常は一つの母音を含むのです。例えば「新」という漢字は日本語では「シン」と、2つの音と感じられますが、中国語では「xin(シン)」を1つの音として感じます。(英語でも「sun」は1音節、「サン」とカタカナにすると2音節になります。英語の歌などでついていけない人がいるのは、この1音のところに無理矢理2音入れようとするからです。w)そう、もともと中国語である漢字の場合は、「ン」の音が既に他の音と一緒にくっついて例えば「新」という字の中で表現されているのです。従って、取り立てて「ン」の字を作る必要がない。

これは、あくまでも、万葉仮名なり漢文なり、漢字で文章を書いていた人たちが、結局は当時の中国語文化圏の人たちであったことを表しています。しかし、文字というものが広まっていくにつれ、当然、もともと日本語文化の人たちがそれを利用するようになります。そうすると、音の捉え方が違うので、いろいろと不都合が起こることになります。例えば「ん」がない……。

逆に、前にも書きましたが、万葉仮名では母音の種類が多く、乙類、甲類というものの存在が指摘されていますが、これがひらがなやカタカナになった時に消えてしまったのは何故なのでしょう? それは、中国語文化圏の人たちには、例えばアメリカ人が「ラ」行の「L」と「R」の音はきっちり分ける必要があるのと同じに、やはりこれらの母音を分ける必要があった。のに対し、いわゆるもとから日本語の人たちにとって、それは重要ではなかったのではないでしょうか。だから使わなかった。そして寧ろ「ん」を必要とした……。

実は、漢字以前の文字である「ホツマツタヱ」のヲシテと呼ばれる文字には、ちゃんと「ン」の音があるのです。しかも、何と象徴的な形なのでしょう!

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上記のような事情を考えると、ホツマの文字はどの面から見ても、万葉仮名、ひらがな、カタカナ等に比べ、日本語の特質が見事に生かされた体系になっており、その文字体系と思想体系、歴史体系の綿密な一致が、とても一人の人が頭で作り出した産物ではないことを物語っています。ひらがな、カタカナという、漢字文化から見たのではわかりにくい古文の表現、古語の意味も、ヲシテから見て行くと実にすっきりと整理できるのです。

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March 08, 2008

コンピュータは本当に速いのか?

現在システム開発の仕事に携わっていることを以前書きましたが、先日こんなことがありました。

私が開発に携わっているシステムをお客さんに引き渡す前に、今いろいろな人が実際に触ってみてテストを行っているのですが、そのテスト中にエラーが発生したのです。この人がやっていたのは、まぁ簡単に言ってしまうと受けた注文に対して、付随的な情報を追加する処理だったのですが、発生したエラーというのはその情報の追加ができなくなった、ということでした。調べてみると、そのレコード(情報)は既に登録されていて、二重登録はできません、という内容です。

ちょっと面倒な話になりますが、このシステムでは情報を編集してボタンを押すと、その情報がデータベースに記録されるしくみです。そして、データベースで管理する時は、同じものがダブらないようにチェックがかかるのが普通です。例えば、よくある顧客情報のデータベースを考えると、例えば私が商品を注文する度に「タンゴ黒猫」という名前が何度も追加されて、それを元にダイレクトメールが来たりしたのでは、管理する企業としても客の側としても、不便この上ないですね。既に登録されているものは追加できないようにしておいた方が、既に登録されている情報を集中的に管理できて便利です。が、顧客情報の場合は同姓同名ということもあるかもしれません。(まぁ、「タンゴ黒猫」という人は他にはいないだろうけど。w)そこで、例えば名前と生年月日を組み合わせて、同じ組み合わせであれば追加できない、というようにしておくと、同姓同名のお客さんにも対応できます。

今回私のところで起こったエラーも、データベースのそのようなしくみの中で起きました。注文に関する情報ですから、当然申込番号はダブります。そこで、申込番号に加えて、処理した日時を秒単位まで記録し、申込番号と処理時間の組み合わせでその情報を特定するようにしてあったのです。

ところが、このテストした人の処理が速かった。付随的な情報を何件か登録していて、ある情報を編集、登録ボタンを押して次の情報を編集、もう一度登録ボタンを押すまでに1秒かかっていなかった。従って同じ申込番号と処理時間の組み合わせができてしまったのがエラーの原因でした。会社としては、処理時間を秒まででなく、ミリセコンド(千分の1秒!)まで記録することで回避するような対応をとることになるとは思いますが……。

それにしてもこのテストしていた人の処理能力の速いこと。実際、音楽やっていたりスポーツやっていたりすると経験することが多いと思いますが、人間、1秒の間にやれることは多いものです。逆に、コンピュータは、調子がいい時はそれこそ千分の1秒単位で処理するのに、ちょっとでもメモリー不足、ハードディスクの断片化などが起こると、ファイルを開いたりコピーしたりするような単純な作業でも何分も待たせたりしますね。場合によっては人間のスピードに追いついて来れない。今回もそうでしたが、私もよくあるのは、私のキー入力にコンピュータがついて来れなくて、IMEやワープロのソフトが固まってしまうことです。そういう速さの時というのは本当にノッていて、一気に長文を打ったりしてますから、固まってしまうと……。そう、それまで打った文章が全部失われてしまい、泣く思いをします。ゆっくり、落ちないようにコンピュータに気を遣いながらまた入力し直さないといけない。

一体、コンピュータは本当に速いのか。というより、コンピュータは本当に仕事の効率を上げるのに役立っているのか。現状はどうもそうではなさそうです。コンピュータを使う方がある種の処理は早く、正確なのでしょうし、例えば私のように音楽をやる人間だと、私一人でできる以上のことを実現してくれるのも確かです。が、同時に確かなのは、コンピュータが処理を終わるのを待たなければならないということ。どんどん先に進みたいからコンピュータ使っているのにね。コンピュータを待っている時間ほど無駄でイライラするものはないですね。実際、ワードもエクセルも便利そうで、それより何よりウィンドウズOSなんて使っていない会社はないと思うけれども、あれを使うことで生じている無駄な時間というのを計算したら膨大な損失を日本全体、世界全体で生んでいるんではないかと思います。にも拘らず、その会社を訴えることもせず、ただ言いなりになって次々と出される新商品を買い続けているというのは人がいいにもほどがあるのではないでしょうか。もしあなたの仕事がなかなか片付かないとしたら、それはそんなコンピュータを使っているからかもしれません。

どんどん世の中の変化が激しく、仕事に今まで以上のスピードが求められる時代、本当に人間が先へ先へと動くのに役立つ、速いコンピュータ、速いソフトの登場が待たれているように思います。


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February 14, 2008

人の歴史は
愛する人と引き裂かれた
悲しみの歴史
今まで生きたあらゆる人の
悲しみと祈りが
今ここに集い

全ての悲しみは愛へと変わる
今 この時
愛が実現する時代となった

この喜びを
世界中の
あらゆる人に
伝える


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January 29, 2008

ソラマメ始めました。

このブログではセカンドライフの話を何度となく書いています。それは一つには、一見ただのネットゲーム、趣味の世界に見えるこのセカンドライフが、実は現実の社会を大きく変えるポテンシャルを持っているからです。が、やっぱりまだまだ認知度は低く、また、要求されるPCのスペックも高いことから、誰もが気軽に参加できる状況にはなっていません。セカンドライフに関するこのブログの記事も、関わっていない、参加したことのない人には何のことだか、何が面白いんだか、ちんぷんかんぷんでしょう。

実はセカンドライフにはソラマメ(SLMame)という専用のブログがあり、セカンドライフに参加している人は大抵そちらで記事を書いているでしょう。ただ、上記の理由から、より多くの人にセカンドライフの可能性を知ってもらい、参加してほしいのと、これ以上ブログやら連載やらを増やすのは無理、というのがあり、ソラマメには手を出さずにいたのです。とは言え、どう考えても内輪受けしかしないようなこともあり、そういうものはセカンドライフの友人から誘われたセカンドライフ用のSNSの日記に簡単に記しているのでした。

とは言え、SNSの記事というのは所詮内輪のものですし、やっぱり多くの人に伝えたいこともある。同時に、セカンドライフのことを書くとなると、どうしてもセカンドライフのアバターである Hiroshi Kumaki として書かないわけにはいかないのです。が、このブログはそもそも「タンゴ黒猫の音楽日記」というくらいですから、やっぱりタンゴ黒猫として書いているわけですね。そういう名前というか立場の使い分けがだんだん煩わしくなってきましたし、何と言っても、検索サイトからここに来た人にとっては何が何だかわからないでしょう。

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というわけで、昨年末にポッドキャスティングを止めたことですし、より活動が本格的になってきたソラマメに Hiroshi Kumaki 名義でブログを書く事になりました。タイトルはズバリ、「Hiroshi Kumaki's Lifebound Blog」。日々セカンドライフの中で起こったことは勿論のこと、これまでこのブログで書いた記事も統合して、トータルにセカンドライフのことがわかるようなサイトにしていく予定です。このブログも「音楽日記」と題している割には音楽話題があまりありませんが、私の音楽活動としては、セカンドライフ内の活動の方が活発になってきており、ネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」で発表している曲も、セカンドライフ内のコンサートで好評だったものを公開する、というように、今やセカンドライフの方が先行しています。是非、このブログと併せてソラマメの方もどうぞよろしくお願いします。

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January 28, 2008

ついに手に入れた!〜『桓檀古記』

最近また『ホツマツタヱ』のことなど書いたり読んだりしているからかもしれない。この週末、ふっと立ち寄った古本屋で、何かおもしろいものはないかと眺めていたら、目立たないようにして『桓檀古記』が置いてあった。前からほしいと思っていた書物だが、何と言っても値段がはるので、いつも先送りになっていた本だ。ふっと手に取って値段を見ると何と、1,800円とある。んなバカな! と思って中身を調べてみると結構な美本で、正に私が欲しがっていたその本なのだ。こんなチャンスは二度とないと思い、衝動買いである。

『桓檀古記』は『ホツマツタヱ」同様知る人ぞ知る書物で、基本的には朝鮮半島の古代史を記したもの。いだきしんさんや高麗恵子さんがよく話して下さる高句麗の真の歴史のことなど、この本に詳しく書かれている。この書を紐解けば、単に朝鮮半島と言わず、これまで中国を中心に事実とされてきた東アジア全体の歴史観が大きく変わってしまう本で、例えば、日本で言えば、この本に書かれてあることを真実とするなら、天皇は朝鮮半島から来たことになり、日本の国土での発祥、ないしは天から降りてきた、というような皇国史観はあっさりと崩れてしまう。それだけに日本でも朝鮮半島でも隠された書物となってしまった。が、見方を変えれば、そこに記された人物たちの業績や理念、理想、といったものの素晴らしさ、偉大さに触れることができ、自分たちがそうした偉大な人物の末裔であることに誇りを覚え、どんな困難にも打ち勝つ元気と強さとを取り戻すことができるのだ。

この『桓檀古記』と『ホツマツタヱ』、それに以前話した『契丹秘史』などの書物は、個別には偽書の扱いをされることが多いのだけれども、実は共通する世界観がそこにはあり、鹿島曻さん流の解釈をするなら、それはユーラシア大陸全土にわたる壮大な人と人との交流と発展のドラマ、歴史となるのだ。日本の歴史とはこの島国の中にいた人だけが作ったわけでも、またその人たちだけのものでもない。こうした大きな歴史観に触れる時、私たちは人間というものの存在の素晴らしさ、自分が今ここに生きていることの意味を改めて実感するのである。

(※『桓檀古記』の具体的内容については、じっくりと読み進みながら、ここにポツポツ書いていこうと思うのでお楽しみに。)

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January 27, 2008

セカンドライフ〜Niseko SL Station in TOYOTA SIM に出演!

昨晩、12月にオープンしたばかりの TOYOTA SIM で行われたイベント、Niseko SL Station in TOYOTA SIM に生で出演、お話と演奏してきました。Niseko SL Station はその名の通りNiseko 3 SIM に拠点を置く kenmi Lomu さんをパーソナリティとする人気ラジオ
番組で、実は STARTracker Island では、私と kenmi さんとはお隣さん同士なのです。二人ともスタトラに店があるということで、それぞれ個別にスタトラでイベントをやったりはしてきたのですが、いつかコラボしたイベントをやりたいね、とは言っていたのです。

それが、漸く技術的な問題を解決して、昨晩実現することになったのです。但し、ニセコやスタトラといったいつもの場所でなく、新しい SIM のテナントや住民募集も兼ねた大きなイベントでの初の試み、さすがに緊張します。午後7時過ぎ、skype を使って北海道の kenmi さんと東京の私とが音声でつながります。いつも SL で会っていて、チャットで会話しているはずなのに、直接声で話せるというのは何とも不思議な感じがします。北海道はマイナス8度、kenmi さん手がかじかんでキーボード打てない、なんて話が聞こえてきます。東京の私も寒い寒いと思っていましたが、勿論北海道は比ではないようです。そんなことも話しながら、そのまま進行など打ち合わせ。ステージに楽器を設置したりと、準備している間に、あっと言う間に22時になります。番組スタート!

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会場全景——会場には40人以上の人が


会場には40人以上の人が集まり、賑やかに盛り上がっていきます。私も最初は観客に混じって見ていましたが、そのうち時間になり、楽屋へ移動、着替えていよいよ登場。kenmi さんのキューにドキドキしますが、一旦出てしまえば、もうあとは出たとこ勝負ですね。(笑 おしゃべりして、演奏して、あっと言う間に時間が過ぎていきます。

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演奏中の Hiroshi と魅力的なトークの kenmi さん


番組は、kenmi さんへの応援や、賛辞、ラブコール(?)が飛び交い盛り上がる中、無事24時に終了。よくあれだけたくさんのメッセージが寄せられる中、それを読み上げ、時間通りに進行できるな、と私は感心しきりでした。終了後、ステージを撤去、お互いお疲れ様を言って別れます。またどこかでやろうね、と。

そう、きっとまたどこかでやるでしょう。昨晩見逃した方は是非その時をお楽しみに!

P.S. TOYOTA SIM はまだ出来たばかりで、モールのテナントやマンションの入居者を募集中。いずれも驚くようなお家賃で、特に地下街モールは3月末まで無料キャンペーンをやってます。土地を探されている方、TOYOTA SIM にいらしてご検討されてみては?

TOYOTA SIM 情報サイト
SLJP-セカンドライフ非公式情報サイト - TOYOTA SIM

Niseko SL Station SLURL
ニセコ本社 http://slurl.com/secondlife/Niseko3/98/225/24
スタートラッカー店 http://slurl.com/secondlife/STARTracker/30/80/22

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January 25, 2008

海外進出!

私が新曲を発表しているネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」ですが、一週間ほど前にその英語版が創刊されました。当初から編集長の詫間氏はインターネットで出すということは世界を相手にすることだ、とおっしゃっており、英語版の構想はずっとあったようなのですが、海外のお客さんとの決済をどうするかでずっと時機を見計らっていたようなのですね。それが昨年の終わりに環境が整ったとして発表され、いよいよ新しい年の初めに創刊の運びとなったわけです。

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自分たちが音楽に込めたメッセージが世界中の人に届けられるかと思うと嬉しい限り。私はあまり海外に知り合いはいないのですが、関根敏行さん、HIROさん、COSMOさん、何れも海外や外国人の知り合いに見てほしい、或いは見てもらったけどよくわからないとか、そんなことをおっしゃってましたのでね、これからはどんどん紹介できますね。

それで気になって、海外からのアクセスはあるか聞いてみたら、これまでもアメリカとスペインからはあったそうなのですが、今週はアメリカは勿論、カナダ、ニュージーランド、ドイツ、韓国、中国からのアクセスがあったとか。いやー、ホントに嬉しいですね。いろんな国の人に見て頂いていると思うとワクワクドキドキしてしまいます。あとは……みんな買ってくれるといいなぁ。(日本語版は500円ですが、英語版はUS$4.00です。)

というわけで、まずはお知らせでした。皆さんも英語版にアクセスしてみて下さいね。
どうぞよろしくお願いします。

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January 23, 2008

『ホツマツタヱ』〜「トノヲシテ」と「ホコ」の話

前に、『ホツマツタヱ』が語るところでは、日本の建国の理念は、天の恵みを全ての民に行き渡らせる、全ての人が幸せで豊かに暮らす社会を目指す「トノヲシテ」にあるという話をしました。これ自体は大変素晴らしいことだったのですが、時代が下り、第6代アマカミであるオモタルとカシコネの時代に、「トノヲシテ」を守らず、他人から奪う「ヨコマ」と呼ばれる人たちが現れ、とうとう「ホコ」が作られ、この人たちを斬ることで国民の生活を守るという手段がとられました。オモタル、カシコネには子がなく、世もだんだんと乱れていきますので、これは早くアマカミの地位を次の世代に譲らねばならぬと、こうして呼ばれたのがイサナギとイサナミの2人であったわけです。オモタル、カシコネは若い二人に琵琶湖の近くに1500人が暮らす村と田とがあるので、そこへ行き、国を治めなさいと、この時「トノヲシテ」と「ホコ」とを授けるのです。こうして「トノヲシテ」と「ホコ」とが国を治める象徴、理念となったのです。三種の神器の始まりですね。

ところで、何故人を斬って殺す「ホコ」がこの平和な国で宝とされたのか、23アヤ「ミハサダメツルギナノアヤ」に詳しく述べられています。

マタホコモ タカラノユエハ
トノミチニ クイヲサムレト
ソノナカニ ヨコキクモノハ
オノガミニ アワネハミチオ
サカニユク ヒトリモトレハ
トモオマシ ムレアツマリテ
ワタカマリ ミチサマタゲハ
メシトリテ タヾシアカシテ
ツミオウツ ヲサムルミチノ
ミダレイト キリホコロハス
ウツワモノ アメノヲシヱニ
サカラヘハ ミニウクアマノ
サカホコゾ クニミタルレハ
タモアレテ ミヅホノボラズ
マツシキオ ツミビトキリテ
タカヤセバ ミヅホノナリテ
タミユタカ チカラオヽトシ
サヽグレハ ヤモノニギワヒ
タカラデル カレニタカラゾ
サカホコモ ウチヲサムユエ
タカラナリ

<また「ホコ」も宝だというわけは、この国は天の恵みを真っ直ぐに貫く「ト」の道で治めてきたのだけれども、他人から横取りするような人たちは、自分たちの都合に合わないと、「ト」の道に全く逆行した生き方をするのです。そして、一人こういう人が現れると次々に仲間を語らって、群れをなして「ト」の道を妨げようとするのです。そこで、こうした人たちを召し捕って、糺し、罪をはっきりとさせ、その罪を討つのです。国を治める道を乱す、この乱れ糸を切って綻ばせる道具がこの「ホコ」なのです。天の道を逆さに行く者がその身に受け、綻ぶ道具ゆえ、「天(あめ)のサカホコ(逆鉾)」と言うのです。国が乱れれば、田も荒れて、稲の穂も実らず、貧しくなってしまうのを、こうした罪人を斬って、田を耕せば、稲穂も豊かに実り、民も豊かになるのです。税金も低くして民に還元するようにすれば、それは多くの人々が元気に賑わうようになる、こうした豊かさが「田から」出る。それで「タカラ(宝)」と言うのです。「サカホコ」も人を斬る道具であるとは言っても、こうして国を治め、人を幸せに豊かにするものであるゆえに、宝なのです。>

ここで、「ホコ」という文字を見てみることにしましょう。「ホ」は四角に縦2本の線、「コ」は同じく四角に縦1本の線という形です。この四角が「オ」段の音を表し、同時に「土、大地」を表すことは前に話しました。「ホ」も「コ」も、大地に天から真っ直ぐ柱が立っている様を表しています。「ト」の文字が表していたのは天からの恵みが真っ直ぐに民に注ぐという、やはり縦の道です。ところが、天からの恵みだけに満足せず、人の隙=「マ」を狙っては横から横取りする人、これを「ヨコマ」と言ったのです。今の「邪(よこしま)」の元の形ですね。横になったものを縦に正して、この大地に貫かせるもの、それが「ホコ」のヲシテ(文字)の意味なのです。

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「ホコ」と「ト」のヲシテ(ホツマ文字)

こうして天の恵みを民に行き渡らせる「トノヲシテ」と、それを乱すものがあれば正す「ホコ」とが国を平和に治める2本の柱となったのです。そして、その「トノヲシテ」と「ホコ」を合わせ象ったのが、今神社にある鳥居なのです。鳥居の2本の柱は「トノヲシテ」と「ホコ」——私たちが神社を訪れると何気なく見ているあの鳥居こそ、この国の建国の理念、理想を古代から今に伝えているのです。

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熊野本宮大社の大鳥居

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January 22, 2008

初雪!〜春の訪れ

記事としては古くなってしまいましたが、昨日1月21日は大寒でした。1年で一番寒い日。前の晩からニュースでも、東京都心でも最大3センチくらいの雪が積もるかも、というアナウンスがされていました。前にも書いたと思いますが、私は今仕事の関係で小田原近郊の、富士山が大きく見える町に仮住まいしていて、この天気予報を見た日曜の夜には参ったなぁ、と思ったものでした。東京都心で3センチの雪が降るなら勤務先のあの町はどうなるのだろう? これはいよいよ長靴でも履いていかないとヤバイかな、と。

21日の朝、起きてみると、確かに地面は湿っているものの、雪は積もっていませんでした。ラッキー、と思ってそのまま電車に乗って出勤します。朝早く出発するので、どうしても途中で眠ってしまいます。降りる駅のひとつ前の駅ではっと目が覚めると、どうでしょう、一面銀世界ではないですか。国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった——そんな言葉を思い出しながら車窓の風景に見とれます。初雪だ。この冬、初めて雪を見る……。

寒いし、滑るし、雪は困るけれど、それでもやっぱり、雪が降ると風景も美しく、この世の全てが清められる気がします。大寒とは一年で一番寒い日。古(いにしえ)の人はこの時をもって春の始まりとし、2週間後を立春、春立つ日、としたのでした。旧暦の正月はこの時期に当たり、今の1月よりも、ずっと年の初めにふさわしい気がしますね。節分はその名残ですし、今でも中国ではこの辺りを春節として祝います。

しかし、一年で一番寒い日に雪が降ったということは、今年は雪が少ない、ということなのでしょうか。ふと「地球温暖化」という言葉を思い出し、この星の行く末を憂う——そんな大寒の一日でした。


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January 21, 2008

言葉、音、意味

前回のブログの最後の方で、「言葉が音から意味になり、更には記号になり……」みたいなことを書いたのですが、疑問に思われる向きもあるでしょうから、ちょっと補足しておきます。

私たちは言葉を耳にするとすぐにその「意味」を知りたがりますが、私はこの「意味」こそが言葉をわからなくしている要因の一つではないかと考えています。言葉はそもそも「音」であり、その音の中に私たちが某かのものを感じ、わかっているのではないかと思うのです。漢字は、確かに便利な道具ではありますが、漢字の導入によって私たちは本来の日本語感覚を失ったというのもまた事実でしょう。例えば、私たちは「疲れる」と「憑かれる」とは別の言葉、別の意味として認識しています。が、本来これは同じことばであり、「つかれる」とは、自分以外の誰かによってコントロールされ、振り回されている状態を表しています。嫌な上司にこき使われて嫌々やる仕事はちょっとやっただけでも疲れてしまい、回復に時間がかかりますが、自分の好きなことならたとえご飯を食べず、眠らなくとも元気でやれたりしますね。それから昨日『ホツマツタヱ』を読んでいたら出て来たのですが、田を耕し、米を収穫するようになって国が栄え、民も豊かになった、この恵みは「田から」来たものなので「宝」というのだ、というのですね。下手なシャレのようですが、何のことはない、もともと同じ言葉なのです。

前にも書いたのですが、「意味」ということから「音」ということに焦点を当ててみると、言葉はおもしろいのです。例えば、日本語の文字の最初の2つは「アイ」ですが、この音を世界の言語に訪ねてみると、

アイ 日本語=最初の2つの文字
愛(アイ) 中国語=「愛」
I(アイ) 英語=「私、自分」
hay(アイ) スペイン語=「ある、存在する」
eins(アインス) ドイツ語=「1」

このように並べてみて、お気づきになりませんか? 「意味」としてはバラバラですが、何れも、存在とか、無から有を生み出す力、エネルギーと関係しています。それから、例えば、こんなのも不思議です。

名前(ナマエ) 日本語=「名前」
naam(ナアム) ネパール語=「名前」
Namen(ナーメン) ドイツ語=「名前」
name(ナーメ) ペルシャ語=「本」

こちらは、系統は全然違う言語なのに何故か音も意味も似てる。(実はドイツ語とペルシャ語は同じ系統の言語ですが。)そう言えば、比較的最近ですが、日本語とラテン語には、似通った語彙が多数存在する、という研究が出ていて、私は大変そそられました。日本語のルーツなどと言うと、すぐにアジア系の言葉ばかりを考えがちで、まさかラテン語と比較するなんていう学者さんはそんなにいないと思うのですが、実は私も同じようなことを考えていたので、この研究には驚きました。

言語は意味の系統で考えるとわけがわからなくなりそうですが、実際は、どの言語集団であれ、ある音はある効果をもたらしたのではないか、と私は考えています。言葉は音であり、音は音圧という言葉があるようにある力、エネルギーであり、またその音の響きによって私たちは楽しくも悲しくも、また怒りを感じたり苦しくなったりするのも日頃経験しているところです。とすれば、音としての言葉は現実にある状態を変化させていったに違いないのです。それが日本でいう「言霊」の実態でしょう。こうした真に力のある、エネルギーのある言葉を取り戻すことが、私たち一人一人の健康や幸せにとっても大事なのではないか。

『ホツマツタヱ』は私たちに日本語の48音一つ一つが持つ力やエネルギーを教えてくれます。これら48音をもとにした「アワのうた」を民に歌わせることで、イサナギとイサナミとは、国民一人一人を健康にし、精神も豊かに、国も平和に治めたと言います。また、その長女ワカヒメは和歌で田畑に害を及ぼすイナゴの大群を追い払ったと言われています。音としての日本語はそれほどにスゴイのです。

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January 17, 2008

ホツマ文字と万葉仮名〜音と音素の違い

「ホツマツタヱ」は偽書だと言われていますが、私は、2005年12月22日の記事(『ホツマツタヱ』〜宇宙の原理を表す「アイウエオ」)26日に書いた記事(『ホツマツタヱ』〜日本建国の理念「トノヲシテ」)の理由によってこそ、「ホツマツタヱ」は偽書でないことの照明になっていると思うのです。つまり、この書に盛り込まれた知識といったら、言語学から自然科学から政治学から、全てが矛盾なく一貫しており、それは特定の誰かが勝手に生み出せる産物ではないからです。嘘は必ず齟齬を来すものです。齟齬と言えば、「ホツマ」よりは寧ろ『古事記』、『日本書紀』の方が多いように私には感じられます。私の場合は、記紀を読んでいてどうにも納得できなかった疑問が、ホツマ文献を紐解いて「なるほど!」と氷解したことがいくつもあるので、敢えてそう言うのです。

ホツマ文献を偽書だとする最も大きな理由と思われるのが、ホツマ文献が記載されている文字、つまり「ヲシテ」が48文字しかないという事実です。確かに、平安時代以降、いわゆる「かな」は48文字しかありません。今でも「五十音」と言いますね。が、日本語学者の間で共通の認識になっているのは、万葉時代には48音以上あった、という事実です。確かに、万葉仮名の一部には、現代日本語の五十音のうち、イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ及びエの14音、更にその濁音について、甲類、乙類という2種類の音があったことがわかっており、その2種類は厳密に漢字が使い分けられているのです。そこで、ホツマ文字「ヲシテ」が48音ということは、既にその区別がなくなった、例えば江戸時代の人による創作ではないか、というのです。

しかし、これとて私にとってはナンセンスな話に響きます。何故なら、言語学やそれに関連する音声学を少しでも学んだことのある人であれば、「音」と「音素」とは別物であることは基礎の基礎に属する事項だからです。この言葉を初めて耳にする方もいらっしゃる方も多いかもしれませんね。では、「音」とは何か、「音素」とは何か?

私たちが英語を習い始めてすぐに覚える言葉の一つに「発音」というのがあります。「発音がよくない」とか、「正しい発音を身につける」とかいいます。で、辞書を見ると「発音記号」なるものが載っている……。ところが、学問的には、この「発音」という言葉ほど曖昧な言葉はありません。一体、何をもって「正しい発音」と言うのか? そこで、音声学ではいわゆる「発音」を、「音(音声)」と「音素」とに分けて考えます。「音」とは実際に発音される音、そのものです。そして、「音素」とは、ある言語集団が、「同じ音と感じられる」音の集合、範囲、ということができます。例えば、私たち日本人同士会話していて、私の「あ」と皆さんの「あ」は多少響きが違うかもしれない。或いはどこか訛っているかもしれない。同じ私の「あ」でも、落ち着いている時と、泣いたり叫んだりしている時とでは、実際に出ている音は違うかもしれない。それでも、同じ日本人同士、「あ」なら「あ」として認識できる範囲、それが「音素」です。寧ろ、実際の発話では、同じ発音というのはあり得ません。全く違う音と言ってもいい。それが同じ日本人であれば、ある音は「あ」として認識され、ある音は「え」と認識される、それが「音素」なのです。

この説明の文章で私がしつこく「同じ日本人同士」と書いたのは、言語集団が変わると、その音をどう認識するかは全く変わってくるからです。一番わかりやすい例が日本語の「ら」行の音です。「ら」行の音は私たち日本人には「ら」行の音として、一つの音として認識されますが、例えばアメリカ人からすれば、日本人の「ら」行の音には「L」の音と「R」の音の2種類があると感じられます。逆に、私たちにとってみれば、アメリカ人の「rice(米)」であろうが「lice(しらみ)」であろうが、同じ「ら」行の音、「ライス」であると感じられます。また、アメリカ人が「water」と発音すると私たちには「ワラ」と聞こえますし、「mirror」と発音すれば「ミラー」と聞こえ、どちらも「ラ」の音ですが、アメリカ人ははっきりと前者は「T」の音であり、後者は「R」の音であると感じます。

ここまで書けばおわかりでしょう。どのケースでも、発音されている音は同じものなのです。でもその音をどう感じるかは言語集団によって異なります。恐らく、漢字が輸入される以前の、ホツマ文字「ヲシテ」でものを記述していた人たちは日本語は48音あると感じ、同様に、日本語を漢字で表現しようとした人たち——恐らくその人たちにとっては漢字は母国語であったでしょう——にとってみれば、もっと多くの音があると感じたのではないでしょうか。しかし、結局日本語を表記する文字が48に落ち着いたのは、結局のところ、48音と感じる人たちが圧倒的に多かったからではないでしょうか。

恐らく、万葉仮名は、当時の日本語の発音を忠実に写していることでしょう。が、私がすごいと思うのは、ホツマ文字が何故48音なのかということを、ホツマ文献は自然や宇宙の成り立ちとの関連できちんと説明しているところです。言葉のひとつひとつ、音のひとつひとつが全て宇宙や人間の体とつながっている。音、言葉が人の体に、自然や宇宙に働きかけ、現実を変えていくという、本質的な理解がそこにはあるのです。漢字の日本語への導入により、言葉が音から意味となり、記号となっていった時、言葉はその力を失い、私たちも現実を変える力を失ったのではないか。

「ホツマツタヱ」に触れること、それは、私たちが漢字文化の中で失った、日本語という言葉の持つ力を取り戻し、私たち自身の潜在的能力を取り戻すことなのではないかと思うのです。


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January 16, 2008

セカンドライフ:CD「スタートラッカーズ」リリース!

前にお話しした、スタートラッカーズ島の明るく楽しい仲間たちのことを表現した曲「スタートラッカーズ」ですが、早くもセカンドライフ内でCDとしてリリースしました!

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このCDはスタートラッカー島の限定商品です。スタトラにある私のお店 Lifebound Records でお買い求め下さい。

Lifebound Records では月に4枚程度のペースでCDをリリースしていく予定ですが、この「スタートラッカーズ」を含め、今回3枚のCDを同時リリースしています。

・Hiroshi Kumaki: Star Trackers L$200
・Hiroshi Kumaki: Prayers to Heaven(天壇)L$200(写真右)
・Toshiyuki Sekine: WSD ST Theme(早稲田通りのテーマ)L$200

「天壇」は、昨年北京を訪れた折に作曲したもので、セカンドライフ・コンサートで皆さんからご好評を頂いている曲。(感謝!)また、「早稲田通りのテーマ」は関根敏行さんがリアルでのライブでよく演奏されている、関根さんのバンド Nippon Soul Jazz Band のテーマ曲とも言える名曲です。是非お楽しみ下さい。

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あの時感じたもの
それは
炎であり
美であり
力であり
愛であり
暖かく 熱いものであり
すっと さわやかなものであり

そうしたものの全て——

光に抱かれ
光のうちに
光と共にある幸せ

そして
その更に先の世界
2月14日の「高句麗伝説」
今 待ち望む


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January 14, 2008

新しい人生のはじまり〜いだきしんコンサート

いやー、スゴかった。本当にスゴかった。
昨日も書きましたいだきしんさんのイベントの2日目、想像を遥かに越える素晴らしさ!
こんなコンサートが、こんな経験が現実にあろうとは!

今日は昨年6月にマケドニア・ビトラ市で行われた「高句麗伝説」コンサートの上映会、続いて「精神の源を辿る旅」と題された映像付きのいだきしんさんの即興コンサートで、「高句麗編」、「縄文編」に分かれ、全部で3部構成の一日でした。

ビトラでのコンサートの映像はこれまで何度も見ているはずなのですが、これまで何を見ていたのかというくらい、音が生々しく体に響き、高麗恵子さんの声も、あたかも今、そこで喋っているかのようであり、同時に、天から響いてくるようでもあり、その、えも言われぬ素晴らしい音響空間に、頭からも体からも、自分の中のマイナスなものが全部吹き飛んだようでした。

続く「高句麗編」では、中盤、いだきしんさんがかなり長い時間にわたって和太鼓を激しく叩き続けます。この太鼓は、私たちの体の中、心の中に火を付けてくれました。そして「縄文編」では打って変わって、原初的とも言える津軽の風景を背景に、宇宙的な広がりのある音が空間を満たし、大地から、宇宙から生まれた私たちの体の深奥と広い無限の宇宙空間とがひとつになるようでした。そしてアンコールは、またまた打って変わって、ハイテンポなロックのビートに観客全員を乗せていくのです。

まぁ、ホントに凄まじい一日で、コンサートに向った時と帰って来た時では全く別人になってしまったみたいです。果たして、今まで生きていたのか、と思えるほどに体が活性化し、頭もスッキリとして帰ってきました。昨日は、自分は何をしようというのか、なんてグズグズ考えてましたが、今日はそんなもの最初から決まってる、今年の目標とはそこに近づくために具体的に何をするかだけだ、ということがはっきりしました。そう、今年向うべき方向が決まったのです。今年に入ってもう2週間も出遅れてしまいましたが、成人の日の今日、私も新しい人生のスタートです。

本当に、自分の今と未来がわかり、向うべき方向がわかり、人生変わるコンサートです。嬉しいことに「高句麗伝説」コンサートは来月、2月14日(木)に東京・狛江市の狛江エコルマホールで行われます。是非、この機会をお見逃しなく。詳しくはNPO高麗がある株式会社いだきのホームペ—ジにて!


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January 13, 2008

セカンドライフ:スタートラッカーライブ!

もう日が変わってしまいましたが、12日の23:30からスタートラッカー島という SIM でミニライブを行いました。公にはしていませんでしたが、この日のライブを行った目的は、最後の最後に発表、演奏した「スタートラッカーズ」という新曲。既にネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」第50号で発表されていますが、この曲を捧げた人たちに公開するのはこれが初めて。気に入ってくれるか、実は内心心配だったのですが……。

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pic by Himawari Little

この曲の終わりの方で、汽車の音が入っているのですが、それというのも、スタートラッカー島の売りの一つにツアーライドのSLがあるからです。で、奇しくも、というか、暗示的に、というか、この曲を始める前に、みんなこの島の人はイベント会場に集まってるはずなのに、何故か、そのSLを動かして、会場の周りを回った人がいたのです! 更に奇しくも、この曲の演奏中に、それまで夜だったのが、ちょうど夜が明け始めたのです。誰かが、「スタトラの夜明けだ!」と言います。そこで曲中のSLの音。「スタトラの出発(たびだち)だ!」と言う人がいます。「ヒロシ、計算したな!」という人もいましたが、これはホントに全くの偶然。感動的なエンディングとなり、みなさんに満足して頂き、コンサートは大成功。いやー、ホントにみんなに気に入ってもらえてよかった。ホッと一息です。

早くも、CDは出ないのか、の問い合わせがありましたが、ご心配なく。近々スタートラッカー島の Lifebound Records で販売予定です。お楽しみに。

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久しぶりの「高句麗伝説」日本公演

今日は、ネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」でも案内されていました、いだきしんさんと高麗恵子さんによる「高句麗伝説」が東京のラフォーレミュージアム六本木でありました。「高句麗伝説」コンサートのことはこれまでも何度もこの日記に書いてきましたが、昨年は海外公演が中心で、何と日本での公演は1年以上のブランクがあったのでした。それだけに自分自身久しぶりにここに帰ってきた、という感じで、胸をときめかせながら会場に向いました。

ここ一年半ほど、「高句麗伝説」はどんどんエネルギッシュかつドラマチックになってきていたので、果たして今日はどんな催しになるかと楽しみにしておりましたら、意外や意外、全体的に静かで、体に心に染み渡るような演奏。高麗さんの声も終止やさしい響きで、じっくりと感じ入っておりました。

その間、様々な思いなのか雑念なのか、そういうものが去来する中、ずっと考えていたのは、今自分がここにいる意味、そして自分がどこに向おうとしているのかということ。

いだきしんさんのイベントは明日も同じ会場で開催されます。まだ聴いたことがないという方は是非いらして下さい。詳しくは株式会社いだきのホームページまで。


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January 11, 2008

セカンドライフの経済学

セカンドライフがその他のヴァーチャル・ゲームと一線を画している要因の一つに、通貨のことがあると思います。ゲームの中でお金を使ったり稼いだりすること自体は全然新しいものではありませんが、ゲーム内の通貨リンデンドルと現実の米ドルが変動相場制でちゃんと為替レートがあって、売買可能、というところが何より新しいと思います。従って、自分が現実に所有しているお金(=円)をゲーム内に持ち込むことも、ゲーム内のお金を現実世界に持ち出すこともできるのです。カードでリンデンドルを買うと、その日のリンデンドルと米ドルの為替レート、米ドルと日本円の為替レートで計算されて円で引き落としされるのが何とも不思議、というよりは普通に海外旅行で買い物をした時のような感覚ですね。セカンドライフは無料のものが多く、服なども50リンデンドルくらいから買えたりしますから、ここで遊ぶのは正に物価の安い国で遊んでいるようなものです。

そう。もともと遊びだと思って、あんまり時間やお金をかけたくなかったものですから、最初は無料のものを探して手に入れたり、キャンプと呼ばれる安いアルバイトをして小銭を稼いで安いものを買っていたりしましたが、実際問題として、やっぱり無料のものはしょぼかったりしますし、キャンプも時間がかかる割にはあまり豊かにならず、正にワーキング・プア状態。これではとても大きいことができそうにありません。自分はミュージシャンですが、まず第一に商売道具のピアノやシンセといった楽器が買えない。1日に20ドルくらいしか稼げないようでは、1000ドルのピアノを手に入れるのに一体どれだけ働けばいいのか、いつになったらセカンドライフ・ミュージシャンと言えるようになるのか……。

結局、カードを使って現実のお金を投入します。服や姿形も変わり、楽器も手に入れて、ミュージシャンとして動けるようになると、やはりお金というものは入ってくるものですね。特に音楽というものはそうでしょう。私は、セカンドライフのバーニングライフというイベントで、海外の有名なミュージシャンたちのステージを見たことがありますが、普段着でただギター持って立ってるだけ、みたいな感じでは、折角いい曲をやっても盛り上がらない。そこで、私もステージでは、衣装に工夫を凝らしたり、演奏する時のパフォーマンスなども派手にやるようにしています。お客さんというのはそうしたトータルなものに対してお金を出してくれるのだなぁ、と改めて思うのです。

こうなると、お金がお金を呼ぶ流れになります。いずれ自分の土地がほしいからと有料のプレミアム会員になりましたら、毎週300ドルがリンデン社より支給され、月1,200ドルの収入になります。また、たまたま応募したセカンドライフ内の翻訳コンテストなるもので、何と銀賞を受賞、気を良くして次も応募しましたら今度はブロンズでしたが、まぁ、まとまったお金が入ってきました。こうして最近は、以前のように時間をかけて働かなくても、お金の心配はなくなり、欲しいものもパッと買えるようになったのです。

セカンドライフはお金をかけなくても十分楽しめますし、寧ろ、以前書いたように一文無しから成り上がっていくアメリカン・ドリームのような楽しさがあるのですが、一方で、お金をかけるとそれだけ動きが大きく、早くなるのも事実だということをここ半年くらいセカンドライフに暮らしていて気づかされました。そう、こうして経済活動が大きくなってきて、人との交流も盛んになってくると、これはもう、完全にセカンドライフで暮らしている、生活してると言っていいですね。ハマッてる、どころではありません。(笑

ところで、このお金を大きく動かせば動かすほど、お金がお金を生み、人との交流も多くなっていくというのは、現実の生活でも同じですね。うーん、現実もセカンドライフと同じくらい大きな動きができればいいのだが……!

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January 10, 2008

イスラーム庭園の癒し〜GOLESTAN - Lifebound Garden

セカンドライフ話題の第3弾です。

昨晩、結局土地を3つ借りることになった話をしましたが、Mirandirge、STARTracker Island と書いてきて、最後の一つが SilkRoad というSIM です。ここに GOLESTAN - Lifebound Garden というイスラーム風、というよりはイランを意識した庭園を作っています。

SilkRoad は、最初にこの SIM がオープンになった時から気になっていたのでした。このブログもイランとか中東、中国の話題が多いのは皆さんもお気づきでしょうが、本当に、アジアのこの地域というのは大好きなのですね。最初はセカンドライフは結局ゲームだし、そんなにお金をかけてもしょうがない、と思っていた私も、結局はどれかひとつを選ぶということではなく、気になっているものは放っておくわけにもいかず、やりたいことは全部やりたいと、STARTracker に続いてここも借りることにしたのです。それに、ここには私のコンサートに来て下さる仲のよい人たちもいて……。

ここは入るとすぐ左手にバラの花が一杯咲いていて、その中にあずまやがあります。そう、場所の名前「ゴレスターン」はペルシャ語で「バラ園」の意味で、同時にイランの偉大な詩人サアディーの詩集のタイトルでもあります。この庭園自体はシーラーズにある、やはり詩人のハーフィズの廟を参考にしていて、そこは、砂漠の真ん中というのに花が咲き乱れ、音楽が流れ、そして、イスラームの戒律の厳しいこの国で、いくつものカップルがハーフィズの詩集を手に愛を語り合う、何とも幸せな空間なのでした。ああいう豊かな空間をもっともっと広げていきたいと思うのです。私のあずまやの中央には丸い大理石のテーブルがありますが、いずれここにはハーフィズの詩集を置く予定です。ハーフィズの詩集は、ぱっと開いて出た詩が、そのまま占いになるのです。私がハーフィズの廟を訪れた時も、イランの女学生たちが集まって、きゃあきゃあ言いながら詩集を開いてましたっけ。そのハーフィズ占いをここでできればと考えているのです。

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さて、この庭園に入って右側にはモスクが建っています。入口はやはりイランのエイヴァーンという半ドームを真似したつくりになっていて、中ではイランを中心にした写真展を行っています。実はペルシャ、イスラームの造形は実に繊細で豊かなものであり、私のセカンドライフでのデザイン力がまだまだ及ばないところもあり、ここは時間をかけてより美しく、かつオーセンティックなものに変えていきたいと思っています。因みにここのメナール(ミナレット)には登ることができ、やはり高いところから見る風景はきれいで気持ちがいいですね。

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ところで、ここで見るべきものと言ったらこれだけではないのです。あずまやの奥、バラ園に囲まれたところに地下室への階段があって、その地下はちょっとしたチャーイハーネ(ペルシャ風の喫茶店)になっています。絨毯の上に座ってお茶が飲めるのはもちろん、イスラーム世界に独特の水タバコなるものを楽しめます。私もエスファハーンのスィー・オ・セ(33)橋の下にあるチャーイハーネに行ったことがありますが、普通はタバコを吸わない私も、この時ばかりはめったにできない経験でもあり、水タバコを吸ってみました。いろいろ味がついていてなかなかおもしろかったですね。イスラームでは飲酒を禁止していますからこういうものが発達するのですが、味と言えば、ノンアルコール・ビールも日本のようにビールの味を再現したものというよりは、レモン味とかイチゴ味なんてのがあっておもしろかったですね。ビールのイチゴ味なんて想像できます?(笑

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そうそう。ゴレスターンのチャーイハーネでは、勿論、私のミュージックビデオを見ることができる——今はお正月に因んでイランの日の出の映像を流しています——のと、ピアノやお琴の先祖であるサントゥールという楽器がおいてあり、この楽器を遣った即興演奏のコンサートも企画していますのでお楽しみに。

GOLESTAN - Lifebound Garden
http://slurl.com/secondlife/SilkRoad/26/209/26


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January 09, 2008

会社設立?〜Lifebound Records

今日もセカンドライフの話題です。

昨日はよりよい空間を求めてメインランドに音楽活動の拠点を移した話をしましたが、そうやって求めている時というのは不思議なもので、おもしろい話が他にあと2つ来たので、結局3ヶ所土地を借りることになりました。その一つが STAR Tracker Island で、ここに Lifebound Records というミュージックショップを置くことになりました。

STAR Tracker Island は、仲良しの Leoleo Ling さんの知り合いがオーナーというSIMで、基本的にはクリエイターアイランド、物作りをする人のための島です。いろいろと面白い乗り物やグッズを作っては僕らを笑わせてくれる Leoleo さんはずっと自分が落ち着ける土地を探していたのですが、やはり気の合う仲間のSIMだからか、殆ど即決してしまいました。で、私も誘われ、Leoleo さんが勧めるなら、と心を決め、せっかくだからコンサートを一緒に主催した pira Noel さんも誘おうと思ったら、何と pira さん、私より先にここに土地を借りることを決めていました。Leoleo さんと仲良しで、pira さんのお店のスタッフでもある sena Pinklady さんも含め、pira さんの Hakata にあるカフェに集まっていたみんなが、揃って同じ SIM に土地を借りることになったのです。

ところで、クリエイターアイランドですから、ただ住むというわけにはいきません。商品を作って売らなければなりません。作ろうと思えばいろんなものを作ることができるでしょうが、如何せん、時間が足りない身の上なので、できるだけ手間のかからないものを、と思い——Leoleo さんからは、「案外めんどくさがりやだな」と笑われています——、結局CDを販売することにしました。音楽やってますからね。安直な発想です。

セカンドライフ内でCD? 前にも書きましたが、セカンドライフ内でまとまった音楽を聴かせるのはなかなか難しいと言えます。フリーで手に入れたCDもありますが、これはそのCDに音が入っていて、その場にいる人みんなで聴くことができるものの、例の10秒毎に音楽ファイルが刻まれているもので、PCや回線の状態によって音がブツブツ切れて、とても聴くに耐えられるものではありません。これを商品として出すのはどうか?

私のCDは、CDケースをタッチすると中からディスクが出て来て、ディスクをタッチすると回転し始め、WEBサイトに接続、そこに置いてあるmp3ファイルを鳴らす、というものです。音が鳴るのはセカンドライフの外、PCにインストールされた QuickTime やら Media Player やらが鳴らしているわけですから、セカンドライフ内にいる周りの人と一緒に聴くことはできませんが、こっちの方がずっと音がいい。お金をとるんであれば尚更です。実際にはCDでなくmp3を売ってるわけですが、ちゃんとパッケージやディスクがお客さんの手許に渡るところが、ダウンロードサイトで購入するのとは違った、セカンドライフらしい楽しみを与えてくれていると思います。

STAR Tracker Island と契約したのは何とオープンの前日だったため、最初はとにかく商品とそれを並べる台だけ作って誤摩化しましたが、やはりいつまでもそれでは淋しい。現在では2階を商談もできるようなオフィスにして、壁は通り側が渋谷にあるような大スクリーン、海側は開放的なガラス張りにして、いよいよレコード会社らしい体裁に改装しました。とは言え、ただ会社っぽくしてもつまらないので、基本的にはメインランドと同じような広い海と空を感じられる空間として、土地の殆どを海にし、やはりヨットを置き、隣の pira Noel さんのアクアショップと連携したイメージになっています。

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ここから美しく広い海と空とを見つめながら、僕はその向こうにある未来を思い描くのです。気の合う仲間の集まるこの楽しい場所は、私の交流と新しいビジネス展開の拠点なのです。

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Lifebound Records
http://slurl.com/secondlife/STARTracker/31/54/22

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January 08, 2008

活動の拠点〜Lifebound Cafe

セカンドライフの話を続けます。

前に、Toshimakuという所に土地を借りているという話を書いたことがありますが、11月にそこは引き払ってしまいました。やはり、pira Noel さんの水族館でチャリティコンサートをやって、50人がSIMの限界というセカンドライフで、40人近く集まる大成功となったことで、私自身、ものの見方や感じ方がすっかり変わってしまったことがあります。それから、スクリプトを多用する楽器郡や照明などが、同じくスクリプトで動く魚たちがたくさんいる水族館には負担になったこともあります。この水族館のように美しい、気持ちのいい所で、音楽演奏専用の場所がほしい。

Toshimakuもなかなか牧歌的でのんびりしていていいところだったのですが、広ーい、大きな自然を感じられる場所であること、それから、日本人だけでなく外国の方にも来てほしいところからメインランドを狙うことにしました。ちょうどコンサートの頃出会った縁で、メインランドに土地を持っている人がいて、Mirandirgeという海岸の土地を2000平米借りることができました。2000平米と言えば、かなりいろんなことができそうですが、友人の Leoleo Ling さんからもったいない、と言われるほど贅沢な使い方をしています。浜辺からピアを渡った海上にステージを備えたカフェがあるのです。ここを Lifebound Cafe と名付けて、活動の拠点とします。

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いやー、ここはのんびりした所で、メインランドなので外人さんもよく来るのですが、左右両隣は日本人の方なのでホッとしますね。方やヨットハーバー、方やティキ風の気持ちよさそうな家で、さすが皆さんのセンスのよさを感じます。そして目の前は何と言っても広い海。海に面したSIMも多いと思いますが、ここはリンデンの海と言って、実際に船で乗り入れることができるのです。また、そこにはリンデンの風が心地よく吹いてきます。というわけで、リーマン時代にヨット遊びを覚えてしまった私は早速ヨットを買って、海を渡って、海の向こう側のSIMまで遊びに行ったりします。これがリアル同様に気持ちいい! これはメインランドならではの楽しみですね。

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この気持ちのよい場所で、毎週土曜日、23:00過ぎからミニライブをやっています。やっぱりライブだと直接お客さんの反応がわかったり話ができていいですね。そんなわけで、一方的に喋って配信するラジオ「DAICHI-大地-」は昨年一杯でやめてしまい、こちらに専念することにしました。選曲も演奏も、その時のお客さんに会わせて即興的にやりますので、自分でもどういう展開になるかわからなくて、それがまた楽しいのです。

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皆さん、セカンドライフにログインした際には、是非お立ち寄り下さいね。

Lifebound Cafe
http://slurl.com/secondlife/Mirandirge/205/71/21
営業時間:土〜木 23:00〜25:00(Hiroshi Kumakiのログイン時間帯です)
ミニライブ:土 23:30〜24:30
ヨットによるリンデン海のセーリング、タロット占いなども行っています。
詳しくはセカンドライフ内で Hiroshi Kumaki までIM下さい。

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January 07, 2008

さて、2008年は?

あけましておめでとうございます。
って、もう新しい年が始まって1週間になるんですが。(^_^;

大変ご無沙汰しております。
タンゴ黒猫でございます。
昨年最後の4ケ月くらいは、仕事とセカンドライフで忙しくなってしまって
このブログもついついサボりがちなのでした。

セカンドライフでは、昨年から今年への年越しの日、
Niseko SL Station DJのKenmi Lomuさんがそのラジオ番組で何人かの方に
今年の10大(重大?)ニュースは何ですか、と質問されてましたが、
皆さん、セカンドライフに参加したことですね、とお答えになるのですね。
セカンドライフの中の話なので、当然と言えば当然なのかもしれませんが、
私自身、そうだなぁ、とつくづく思うのでした。

最初はどんなとこか、何ができそうなのか、まずは見てやろう、
というような軽いノリで始め、あちこちをフラフラ彷徨っていたのが、
今や3ヶ所に土地を持って、ライブハウス、CDショップ、イスラーム庭園などを展開し、
毎晩最低でも2時間くらいはいろんな人と交流するようになってしまったわけですから。
それと言うのも、本当にここは出会いの場であり、創造の場であり、
新しい価値を生み出せる場だと感じているからなんですね。

リアルライフでは、私の音楽活動の場もネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」
毎月1曲新曲を発表する程度でしたが、
10月の水族館コンサート以来、いろんなイベントに呼ばれたりして、
頻繁にライブステージを行うようになりました。
リアルでライブをやるのはいろいろと大変ですが、
仮想世界では家にいながらにして、気軽に演奏できるので、
これはありがたいですね。

まぁ、そんなこんなでこうした催しを通じて多くの人と知り合い、
それがまた新しい催しや商品づくりにつながっていくのが
セカンドライフのおもしろいところ。
さて、今年はどんな展開が待っているのか、自分は何を成していくのか?

まだ、という方には是非お勧めしたいところです。
今日はこの辺にして、明日から僕がセカンドライフの中で何をしてるのか
また何を見聞きしてるのか、
少しずつ書いていってみたいと思います。

ではまた!

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November 07, 2007

現場で求められる実力

私はよく物知りとか博識とか言われることがあり、この間などは辞書を枕替わりに頭に敷いて寝ると、辞書の内容が頭に入っていくのだ、なんて伝説がまことしやかに伝えられているのを聞いて笑ってしまいました。いやー、そんな便利な作りになっていればいいんですがね。実際、私はあまりものを記憶するような努力はしていません。頭に情報がたくさん詰まっていると、却ってわけがわからなくなり、物事を判断できなくなってしまうのではないでしょうか。どうも私の見るところ、物知りとか記憶がいいと言われている人に共通しているのは、ものを覚えないようにしている、ということのようです。大量な情報を的確に処理するには、頭に記憶させておくのではなく、知りたい時にどこに行ったり見たりすれば、或いは誰に聞けばいいか、それだけ知っておくことの方が重要です。辞書に載っている言葉を全部覚えるのではなく、わからない言葉、知りたい言葉があったら辞書を引けばいい、とわかっておくことですね。或いは、こういう問題だったら誰々さんに聞けば詳しい、とか。最近はネットで、グーグルで検索すれば、大抵のことは知ることができますね。

そうは言っても、ちゃんと知っておかなければならないことというのはあります。仕事に関する知識などはそうですね。これは頭で覚えるというよりも、身体にしみこませて、頭を使わなくても自然に出てくるようでなくてはいけません。

今、某有名企業のシステム開発の仕事を受けていて、その企業の開発専用の部屋で仕事しているのですが、これが、当然と言えば当然なのですが、顧客情報の流出、ネットやリムーバブルディスクを通じてのウィルス感染などのセキュリティが厳しく、何と私が使っているパソコンはネットにつながっていないのです。従って、あ、あれについて知りたい、と言った時に、ネットを利用することはできません。

これは先日実際にあった出来事なのですが、そういう環境の中で、急ぎであることを実現しなければならず、そのためのプログラムを作られなければならなくなりました。その時、私の頭の中には、あっ、これはあれを使えばいい! というのがあったのですが、その「あれ」とは以前ネットで見たことがあるものなのですが、ちゃんと覚えてはいなかったのです。手許にはマニュアルや教科書の類もありません。仕事中ですから家に戻るわけにもいきません。何しろ、その日の業務が終るまでにそのプログラムを作って、業務終了後に実行しなければならないのです。時間はありません。周りの人に聞いても、その「あれ」については知らないというのです。さあ、どうするか?

今も書いたように、ネットも見られない、本もない環境ですから、これはもう、自分がはっきりとわかっている知識だけで実現するしかないわけです。「あれ」を使えば1行でさらっとカッコよく実現できることですが、それがわからない以上、もう「あれ」のことは考えずに、実現しなければならないことをどう実現するか、どうなっていればいいか、結果から考え始めました。自分の拙い知識を、どう組み合わせればその結果に辿り着けるのか。発想の転換というやつですね。結局、その結果に辿り着くまでのステップをいくつかに分け、それぞれを実現する子プログラムを作り、最後にそれらのプログラムを順番に続けて実行する親プログラムを作って、何とか業務終了までに間に合わせました。プログラムとしてはカッコ悪いけれども、大事なのは目的を実現すること、時機を逃さないことですね。

やり終えたあと、ああ、これは通訳と同じだなぁ、と思いました。通訳もまた、一々辞書やガイドブックなんかみていられない仕事ですね。何を言われても聞かれても、即座に受け答えできなければなりません。正しい訳語とか、ガイドブック的知識に拘るとできない仕事です。自分の持っている単語や表現、或いはそれぞれの分野の知識を駆使して、とにかく内容を正確に伝えるということが求められます。

いや、こうしたことは、プログラマーや通訳に限らず、仕事というものは、現場での仕事というのは、そういうものではないでしょうか。現場で起ることというのは、必ずしも理想的な環境ではありません。寧ろ必ずと言っていいほど、予期しない、準備のできていないことが起ります。その時、プロであれば、わかりません、できません、知りません、聞いてません、といったことは言えません。ものを柔軟に考え、自分の持っているものだけで勝負する、何が何でも必ず目的を実現する。それこそ実力というものであり、プロであると言えるでしょう。

最初に書きましたように、覚えなければならないもの、知らなければならないものは覚えなければ、知らなければならないのです。が、全てを覚えられるわけでも知ることができるわけでないのもまた事実です。以前、「エレガントな解答」という文章で書いたような、カッコイイ答を出せるように、自分の仕事では常に勉強しておくことも大事です。が、「エレガントな解答」という言葉が同時に表わしているのは、数学ですら、答を導く方法は一つではない、ということです。どんな状況下でも、必ず目的を実現できるような発想の転換、応用力といったものも、仕事の現場では要求されています。「正解」を記憶することが求められるテストに長い間どっぷり浸かって慣らされている私たちにとって、このことはとても重要なことだと思うのです。

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November 01, 2007

ミュージシャンと自由、平和

あっと言う間にもう11月、今年も残すところあとふた月となりましたね。9月半ばに北京に行ってからのこのひと月半は本当にいろんなことがありましたのに、セカンドライフでのコンサートの準備などで忙しくしていたこともあって、殆どこのブログの記事も書くことなく過ぎてしまいました。

さて、そのセカンドライフでのコンサートを実行するに当って、私が是非参考にしたいと思っていたイベントがありました。9月の終わりから10月の初めにかけて約1週間にわたってセカンドライフ内で行なわれたバーニングライフという催しです。この催し自体についてはまた別の機会に詳しく書くことにしますが、まあ、とにかくセカンドライフやってるみんなで集まって交流し、大いに盛り上がろうというものです。いくつもの会場でライブステージが行なわれますので、セカンドライフの公式イベントに出てくるようなミュージシャンがどんなステージを展開しているのか、世界的なレベルを確認しておきたかったのです。

会場に行って驚いたのは、折しもミャンマーのデモが盛り上がっている頃であり、正にミャンマーの僧侶の出で立ちをした方や、"Free Burma" というグループに属している方が多くいらしたことですね。やはりこういう国際的イベントに参加するような人は、意識の高い人が多いと感じないではいられません。日本でも新潟中越地震にセカンドライフが敏感に反応していたということを以前書きましたけれども、そういう点を考えても、セカンドライフはインターネットゲームというよりも、意識の高い大人が創るコミュニティという感じがします。

そして、ミュージシャンです。イベントに登場するミュージシャンの方はどなたも、ミャンマーの問題に触れたり、平和とか自由とか、人と人との交流、内面、精神を充実させることなどをステージ上で語るのですね。ああ、いいなぁ、と思いました。自然、このイベントが、ウッドストックやライヴ・エイドなどの流れにあるものとして感じられるのでした。欧米の、特にアメリカのミュージシャンは自由とか平和ということに敏感ですね。自由や平和が脅かされるとすぐに立ち上がる、そういう伝統があるようです。ミュージシャンは、私もそのはしくれとしてよくわかるのですが、自分の裡に表現したいことがいっぱいある人間だということができると思います。表現しないではいられないのです。が、その表現も、生きるということも、自由があって、平和であって初めて実現できるものなのです。ですから、自由が奪われる、平和が脅かされるということに対して、とても敏感なんですね。音楽と言葉とで多くの民衆に語りかけ、共に戦おうとする、それが欧米のミュージシャンであるようです。

日本では、自由とか愛とかいうことが個人的にとらえられ過ぎていて、それが社会全体とは関係ないように思われがちで、従って音楽活動も同じで、純粋に個人的なものに、社会問題とは関係ないもののようになっているように感じます。しかし、実際は、私たちの個人的な生活は社会全体の動きの影響を受けていることは言うまでもありません。この辺りについては、我々日本のミュージシャンはもっと欧米にミュージシャンに学ぶべきところがあるように思うのです。


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October 18, 2007

カードが来た!

北京から戻ってきてしばらくしてから、申し込んであった銀行からカードが届いた。この銀行の発行するキャッシュカードであるが、VISAデビットカードがついているのだ。待ってました! という感じである。

実は、私はかつてクレジットカードで事故を起したことがあって、返済終了から5年経過するまではクレジットカードは持てないし、ローンも利用することができない。今更借財をするつもりはないのでローンはともかく、クレジットカードを持てないというのは厳しい。というのも、私はインターネットがもはや生活の基盤になっていると言っていいが、そのインターネットでの決済手段は殆どがクレジットカードである。日本では振込サービスを受け付けているところもあるが、全体としてはクレジットカードの決済しか受け付けないというところが圧倒的に多い。何千円という安い商品であっても、それを現金で買える余裕があっても、カードがないと手に入れることができないのだ。以前、アメリカのある会社から更新手続をカード決済で行なうよう言われ、銀行から振り込むから更新の手続をお願いしたい旨申し入れたが、カードでないとダメだ、自分で持っていないなら友人からカード番号を借りて手続してほしいと言われ、さすがにそんなことで人に迷惑をかけるわけにはいかず、結局そのサービスの更新は見送ったという、そんなこともあった。また、今ハマッているセカンドライフにしても、カードを登録しておかないとリンデン・ドルを購入することもできない。勿論土地が手に入るプレミアム・アカウントを持つこともできない。

実は、今回VISAデビットカードを知ったのは、そのセカンドライフの流れなのである。クレジットカードの他にVISAのデビットカードも受け付けるよ、ということになっていて、おお、それなら持てるかもしれないと、調べたのだ。デビットカードは「デビット(debit)=引き落とし」という言葉からわかるように、そのカードを使用した時点で、登録されている銀行口座からすぐに引き落とされるしくみだ。後払いのクレジットカードと違ってリアルタイムでお金が動くので安心だし、安心と言えば、口座に入っている金額以上に使用することはできないのもいい。(ちゃんと残高を知っていて使わないと拒否られるので恥ずかしいけどね。)日本ではJデビットというのがあって、普通の銀行のキャッシュカードをデビットカードとして使うことが可能なんだけれども、VISAのデビットカードはVISAのクレジットカードと同じように使えるところが魅力だと言えますね。

というわけで、そのVISAデビットカードが届き、セカンドライフを始めいろいろ試しておりますが、いやぁ、やっぱり便利ですね、カードが使えるというのは。決済方法が増えただけで、何か物事を始めたりするのにも選択の範囲が広がるわけですから。これは大きいです。

こういうサービスがあるのは本当にありがたいことですが、それだけに、信用というものが私たちの生活、人生に及ぼす影響の大きさを改めて思い知りました。なので、本当にクレジットカードは大切に使った方がいいですよ。その使い方が正にその人の信用につながるわけですからね。

それでは、また。


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October 04, 2007

「大地の声」


言葉


そこから始まる
新しい世界——

     *   *   *

今日は東京のめぐろパーシモンホール・小ホールで、高麗恵子さんの詩と語り、いだきしんさんのピアノによる「大地の声」の催しが行われました。高麗さんの語る詩は全て風をテーマにしたもの。その言葉の響きと、いだきしんさんのピアノの響きから生み出される、今まで感じたことのない心地よい空間。これは一体ーー。

目に見えて世の中が素晴らしい方向へ変わったと感じられる一日でした。

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September 18, 2007

訃報

今、知人のお通夜から帰ってきたところです。昨日、訃報を受けた時は信じられませんでした。いつも一緒にボランティア活動している人のご主人で、昔からよく知っている人です。42歳でした。私より若いのに。私よりずっと純粋な目をしたきれいな人でした。なのに何故? この世で起こる全ては神や仏の計らいだと言いますが、何故こんなに若くして彼の命が召されなければならなかったのでしょうか? まだまだ小さい3人のお子さんと奥さんを遺して……。

お通夜の会場にはいだきしんさんのピアノのCDが流れていて、本当に清らかな空間でした。正面に飾ってある彼のカラーの肖像写真は、今にも動き出しそうなほどでした。やがていだきしんさんご本人がお見えになり、ピアノを弾いて行かれました。いだき先生のあのピアノで、彼の魂は本当に安らぎを得ただろうと思います。

願わくは、彼が肉体を失った分、いつも奥さんやお子さんたちと一緒にいることができたらと。そして改めて思わずにはいられないのです。今、こうして生き残っている私は、先に逝ってしまった彼の分も、彼のお子さんや、世の若い世代の子たちのために、一日も早くよりよい社会、世界を創っていかねばならないと。私よりも若い彼がいなくなった今、私にも残されている時間は少ないのです。一日一日、一分一秒おろそかにすることはできません。

美しい魂が、美しい生命が犠牲になることなく、真に幸せに生きられる世の中を!
ご冥福をお祈り申し上げます。

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September 10, 2007

北京へ!(1)〜出発(たびだち)

今日から久しぶりに海外に出ます。明日、北京で行われる「高句麗伝説」コンサートに参加するためです。

9月に入ってからこの間、ブログもセカンドライフもあまりやってませんでしたが、それはずっと気になっていったことがあったからです。このコンサートは、しかも私がこれまで何度も関わった中国でのコンサートは、最初から行くと決めていたにも拘らず、仕事の日程や費用の点で迷っていたのです。

が、迷う必要などなかったのです。自分がやりたいと思っていること、自分が決めたことを曖昧にしておいては日々の生活も仕事もあったものではないのです。ずっとそれが気になりながらの状態が負担だったのか、頭はぼーっとし、疲れやすく、朝も寝覚めが悪いのです。

それが、出発も5日前になって、急遽行くことを決めました。決めると体の奥底から元気が出て来て、頭もすっきりと働くようになりました。当然、朝も早い時間にすっきりと目が覚めます。グズグズと迷っていたのは何だったのだろう、という感じです。それほどまでに、自分が望んでいること、心の奥底ではもう決めていることが自分の生活、人生に影響を及ぼしているのだということを改めて気づかされました。これを無視してはいけません。

そんなわけで、これから北京に行って参ります。明日、奇しくも9月11日という日に行われるこのコンサートが良い意味で世界を大きく変えることを祈りながら。

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September 09, 2007

セカンドライフで九州人会

昨晩は pira Noel さんが Hakata で経営する Cosmic Tree Cafe で初の九州人会が行われました。既に書きましたように、私は pira さんの水族館が気に入ったので、よく私のところに来てくれる Leoleo Ling さんに紹介しましたら、Leoleo さんも「癒される!」と大いに気に入って頂き、pira さんとも意気投合、いろいろと話しているうちに三人とも九州人だとわかり……。pira さんの Hakata のお店のご近所さんは当然のように九州人の方で、こんなにいるんなら、と集まることにしたのでした。

会は pira さんの「秘密基地」にあるステージでまずは一人一人が自己紹介するところから始まりました。必ずしもリアルライフで九州と縁がある人ばかりとは限らないのですが、共通しているのはみんな pira さんに出会ってその人柄に惹かれてこの Cosmic Tree に出入りするようになったということでしょうか。これだけの人を集めてしまう pira さんは、本当に不思議な魅力に溢れた人です。

そうやって集まった人たちがまたバラエティに富んでいておもしろいのです。服のデザインをする人、家具を作っている人、そしてもちろんアバターを作る人、pira さんもパーティクルがお気に入りでいろいろと作っているようですし、そうそう、スクリプトを書く人もいましたね。で、私こと Hiroshi Kumaki は音楽担当ですし。リアルではWeb開発の会社をやっている社長さんという方もいらっしゃいました。まぁ、これだけいろんな才能を持った人が集まれるという、これこそセカンドライフならではの楽しみですね。ここから何が生まれてくるか、非常に楽しみです。

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ステージで自己紹介する ema さんはグループTシャツを作ってくれました——
左奥の女性が pira Noel さん、右から2番目、右を向いているのが私 Hiroshi Kumaki


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40-0 の Kyoko さんはSLでは家具を作っている人です——
話す時に PCが出てくる人は結構いますけど、Kyoko さんは携帯が出てくるのだ


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ギズモなキャラの人もいる——ぬいぐるみではありません

いろんな方、と言えば、途中からサーフボードなどで有名な Analog Jun さんにも来て頂きました。私たちのグループのTシャツをプレゼントしたのですが、どうもサイズが合わず、おへそが出てしまいます。じゃあこれで隠そう、と浮き輪を出して身につけられるではないですか! そこからはもう大騒ぎ。みんなで浮き輪やサーフボードを試したいと、Analog さんのお店がある海へと向かいます。みんな大はしゃぎで楽しいひとときを過ごしました。私もリアルではサーフィンなんてやったことないのですが、実に気持ちいい経験をさせて頂きました。これも仮想空間ならでは。

まぁ、そうやって大騒ぎのうちに閉会しましたが、先ほども書きましたように、いろんな才能が集まったこのグループ、これからどんなことになっていくのか楽しみです。この会を企画してくれた pira さん、グループのTシャツを作ってくれたりと pira さんをいつも支えてくれている ema さん、そして海に連れていってくれました Analog さん、その他会を盛り上げてくれた皆さんにお礼を申し上げます。

それでは、また。

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September 06, 2007

エレガントな解答〜年齢を計算する簡単な計算式

会社で働いていると、人の年齢を計算しないといけない局面というのが間々ありますね。人事担当の方は勿論でしょうけれども、営業をやっていても顧客管理というのもあります。今日、まさにそういう場面が訪れたのです。○月×日時点で雇用されている社員の平均年齢を出してくれ!

いやぁ、久し振りでしたね、こういうのは。かつて顧客管理データベースを作ったことがあるのですが、年齢計算というのは面倒ですね。単純に今の西暦から生年を引くわけにはいきません。誕生日が来ている人と来ていない人とでは変わるからですね。では、実際、どういう計算式で表現するか? もし誕生日が来ていれば、そうでない場合は、なんてIF文を使ったのではやたらとややこしくなります。ややこしい計算式を書いてしまうと、間違えた時に直すのも面倒です。

多分、私がかつて書いたのはこんな感じのものだったのでないかと思います。

=(現在の年月日−生年月日)*4/(365*4+1)

これは、誕生日までの日数を年で割るのですが、4年に1回閏年があるので、4年の日数で割って、その分分子に4を掛けてあるのですね。まぁ、誰でも考えつきそうな、最も基本的な、真面目な式と言えますが、あまりかっこよくないですね。

こういうものは表計算ソフトのエクセルでやることが多いと思いますが、エクセルは関数が充実しているので、便利な関数はないかと思って調べたら、ありました! DATEDIFというやつです。

=DATEDIF(生年月日,現在の年月日,"Y")

私は最初これを "dated if" と読んで何のこっちゃ、と思ってしまいましたが、"date difference" のことですね。最初の日付と2番目の日付がどれだけ離れているかを計算するもので、最後の"Y"のところで「満」になった単位を示します。例えば"Y"ならば満何年(何歳)という結果が得られ、"YM"とすると、満何ヶ月という結果が出てきます。よく勤務年数や居住年数で「何年何ヶ月」という表現がありますが、ああいう場面で便利ですね。うん、これは使える。

でも、必ずしもエクセルを使ってるとは限りません。他のデータベースソフトだったり、いや、出先で、パッと電卓かなにかで計算しないといけない時もあるかもしれません。

今回、どういう式を設定するのが一番いいか、試しにググってみたところ、佐野裕さんのブログに「生年月日から年齢を計算する簡単な計算式」なるものが出ていて、これには目から鱗でした。

=(現在の年月日−生年月日)/10000 (小数点以下切り捨て)

な、なぬっ! 閏年も複雑なかけ算や割り算も、IFも何もないぞ! 殆ど、ただ引いているだけではないか! 勿論、これらの年月日は"20070906"の形式にして計算するのですがね。試しに、1970年9月11日生まれの人の年齢を計算してみると

20070906 - 19700911 / 10000 = 36.9995

小数点以下切り捨てで見事36歳が得られました! 何でこうなるの? と思って、二つの数字を筆算風に縦に並べてじ〜っと睨んでいてわかりました。

20070906
19700911

そっか! 下4桁が誕生日の数字に達するかどうかだけが問題なんで、途中に閏年があるかないかなんて、全然関係なかったんですね!

勿論、この「簡単な計算式」を含め、ここで紹介したDATEDIFなど、全てそうなのですが、他のブログでも指摘されているように、これはあくまでも一般的に考えられているように、誕生日をもって年齢が増える、という解釈に基づく計算であって、実際の法律では、年齢の数え方がいろいろあるようで、法律によっても異なるようですので、実際に1日の違いがクリティカルな局面では、その場合場合に合わせて上記の式を変形することが必要でしょう。

それにしても、シンプルな式というのは気持ちがいいものですね。高校生の頃、よく矢野健太郎先生の数学エッセイを読んだものですが、矢野先生はよく「エレガントな解答」ということを書いておられました。正しい答を出す方法は、実はいくらでもある、だけれども、ゴタゴタした式や証明よりもすっきりと短いものの方が素晴らしい、それを先生は「エレガントな解答」と呼んだのでした。

矢野先生の影響があるのか、自分でもプログラムを書いていく時には、できるだけスッキリしたものを書きたいと思っています。なかなか最初からそんなにかっこいいコーディングができないのですけれどね。それだけに——。

年齢計算は面倒、と思い込んでいただけに、「簡単な計算式」は久し振りに目から鱗が落ち、スカッとする経験をさせて頂きました。佐野さん、ありがとうございました。


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August 29, 2007

感想文

8月も終わり、子供たちにとっては長いような短いような夏休みの終わりである。宿題をまとめなければいけない時期であり、子供たちの会話にも当然この話題が出る。実は、今の勤務先の関係で、毎朝女子中学生の集団に会うのだが、聞くともなしに彼女たちの会話が聞こえてくる。

「あたしはもう宿題終ったよ。」
「えー、早いなー。あたしまだ感想文が残ってて。」
「感想文なんかあらすじ書いちゃえばいいからさぁ。あらすじはどこかに書いてあったりするから、あたしはそれを写しちゃった。少しだけ言葉変えて。」
「3枚以上書かなきゃいけないんだよねぇ。」
「3枚以上だから3枚書けばいいのよ。で、不安だったらさ、4枚目に1行だけでもあればいいわけじゃん。」

そうそう。夏休みの宿題と言えば読書感想文や音楽の鑑賞文、理科の自由研究などがありましたね。で、面倒なのが感想文や鑑賞文で、一体何を書けばいいのか。で、いつの間にか感想文とは、あらすじをうまくまとめてそれに自分はこう思ったああ感じたと書くものだ、という風になっていて、これは僕が子供の頃と全く変わっていないのだな、と思っておかしくなったのであった。実際、本を読んだ感想なんて一言二言しか書けるものではないだろうか。それでも先生からは原稿用紙何枚とか指定されるので、残りは殆どあらすじをその枚数引っ張って書くことになる。

一体、いつから感想文はあらすじを書くものになってしまったのだろう。本当は感想文なのだから、自分を感じたことを文字で表現するということが大事なのではないだろうか。けれども、学校の国語の授業では与えられた文章の理解力を確認することが優先されているため、あらすじをまとめるとか作者や筆者の書きたかったことは何かとか、受け身的な内容が中心になりがちなように思える。

実際、自分の感じたことを表現するというのは、大人の私たちにも難しいことだ。表現しようとすると、短い、一般的な言葉——よかった、素晴らしかった、すごかった、最高、といったような——で終ってしまいがちで、自分の表現力というか単語力というか、要するに国語力のなさを痛感してしまうのだ。こうやってことあるごとにブログを書いていてすらそうである。これは、常日頃自分の感じたことを表現することをしてこなかったからであるし、一方では、学校では正しい答を求められることが多いので、感じたことというのも模範解答的に表現するように身についてしまっているからだ。桂枝雀の落語にもあるが、何でもかんでも最後に「感動した」と付け加えればいいようなものだ。だが、本当は感じていることに正しいも間違っているもない。一人一人の生徒にそれぞれの感じ方があっていい。答は一つではない。

本当は、子供の頃から自分の感じたことを表現するような授業がもっとあっていい。一人一人のそういう感じ方の表現を指導しなければならない先生は大変だろうが、でも結局それがなされていないところで大人になってみんな苦労するのだ。国語はあらゆる教育の基本であろう。

人と人とが出会い、つながり、そこから何かが生まれてくる時、自分が感じていることを的確に表現し、伝える力は絶対的に必要である。その力のなさを今さらのように感じながら、僕もこのブログを綴り続けるのである。

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August 28, 2007

東国原知事

妙なお菓子を買ってしまった。コンビニで、突然目に飛び込んできたのだ。「そのまんまポテト」とある。この語呂のよさ、と思ったらそのまんま東さんこと東国原宮崎県知事の似顔絵が! 次に目に入ったのは「宮崎産」の大きな文字。宮崎産日向夏のパウダーを使用しているというのだ。よく見ると東国原知事の似顔絵は「みやざき」と書かれた法被(はっぴ)を着ている……。NHKの朝のニュースで県庁舎が今や宮崎県の観光名所になった——あわよくば東国原知事を一目見たいというところからだろうが——という報道があった後だけにタイムリー、思わず買ってしまったのだ。

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軽い、と思われる向きもあるだろうが、こうやってお菓子のキャラクターにまでなって自らの県を宣伝するような知事というのはこれまでなかったのではないでしょうか。タレントから知事になった方はこれまでに何人もいて、大阪の横山ノックさん、長野の田中康夫さん、東京の青島幸男さん、いやいや、現在の石原知事もタレント出身だ。それぞれの都道府県内では似たようなことがあったのかもしれないが、こうして全国区で宣伝キャラとして登場した方はいないのではないかと思います。こんな風にキャラになった政治家の方と言えば、寧ろストラップになって人気を呼んだ小渕首相を思い出します。携帯ストラップがあらゆる世代に流行ったのはあの方の影響が大きいのではないでしょうか。

こんなキャラになっても、不愉快に思わせない、寧ろ宮崎のいいイメージに貢献しているのが東国原知事のいいところではないかと思います。単にタレントだから、ということ以外に、人を惹きつける何かがこの人にはあるようです。政治家としてはまだまだこれからというところでしょうが、それだけに一生懸命宮崎のためになろうとしているところが感じられ、好感が持てるのです。県庁が観光名所になるのもわかる気がします。ずっとこのままのいい感じで進んでほしいものですね。

頑張れ、東国原知事!


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August 23, 2007

セカンドライフの水族館でピアノを弾く!〜ライブ・ストリーミングの実験

引き続きセカンドライフの話題です。昨晩は、セカンドライフに参加した時からずっと懸案事項であったセカンドライフ内でのライブ演奏の実験を行ないました。前にも書きましたように、セカンドライフはデザイン、アニメーション、映像、音楽、プログラミングといった、クリエイターなら誰でも挑戦のしがいがある舞台なのですが、しかしその実、音楽についてはいろいろと制限も多いのです。それは、セカンドライフでは1つのSIM(地域)で起る全てのことを1つのコンピュータが全部処理しているということに加え、音楽や映像の処理が重たいということと関係しているのでしょう。

音楽について言えば、例えば、ピアノを弾いて音を出す、ということを考えてみましょう。この時はピアノに、操作すると読み込んである音を出すスクリプト(プログラムのようなものです)を仕込んでおくことになるのですが、その読み込める音というのがWAVという形式のファイルで10秒までという制限があるのです。しかもその10秒のファイルをセカンドライフ内に持ち込むのに10リンデン・ドルの費用がかかります。10秒というと、これはもう、効果音の世界ですね。普通の曲なら4〜5分はかかるでしょう。そこで、ピアノでまとまった音楽を流すようにするには、曲を10秒毎に分割したファイルを作っておいて、これらのファイルをセカンドライフ内にアップロードし、スクリプトで順々に音を出すように設定する必要があります。この方法だと1曲にかかる手間は大変なものですし、費用も240〜300ドルかかることになります。無料で服から家まで手に入るようなセカンドライフの世界で300ドルと言ったら、結構いいものがいろいろ買える金額です。しかも、これだけ手間と費用をかけて、セカンドライフ自体の動きが重くなると、分割されたファイルはうまく連続して再生されず、ブツ切れになったりします。これは音楽ではありません。

そこでストリーミングという方法があります。ストリーミングはオン・デマンド方式とライブ方式に分れるのですが、まずはオン・デマンド方式。これは、その土地(敷地)のプロパティに、その土地で流す音楽ファイル(mp3)が置いてあるサーバのURLを記述しておくのです。すると、その土地を訪れた時に、自動的にメディア・プレイヤーのボタンが画面に現われ、音楽が流れるというものです。これだと、普通に音楽が流れ、途切れることもないので気持ちがいいのですが、一つだけ難点があります。それは、その音楽の再生が、それぞれのアバターの設定によって異なるということです。例えば、私などは「編集」メニューの「環境設定」の「オーディオ&ビデオ」で、音楽が再生可能な場所では再生するような設定にしてあるので——これは時々メッセージが出て確認されることもあります——、そういう土地に行くと自動的に音楽が始まりますが、そういう設定になっていないと、いちいちプレイボタンを押さないと音楽は始まりません。そして、音楽はそのアバターがその土地に入った時から、またはプレイボタンが押された時から始まるので、同じ土地にいるからと言って、同じものを聴いているわけではないのです。曲は同じですが、その曲のどの部分を聴いているかは、時間差が出てくるということです。

つまり、同時に同じものを聴こうと思ったら曲がブツブツ切れてしまうかもしれず、曲を気持ちよく聴こうと思ったら、今度は一緒にいるのにリアルタイムで同じ経験ができないというジレンマがあるのです。

そこで出てくるのがライブ・ストリーミングです。これは、ストリーミング・サーバというものを経由して、そのサーバのURLを先程と同じように土地のプロパティに設定しておけば、リアルタイムで音が流れてくるというもので、セカンドライフでのライブイベントなどではこの方法がとられています。但し、この場合は、楽器やマイクの音を取り込んで、その音をストリーミング・サーバにアップロードするものと、セカンドライフ内で自分のアバターを操作するものの、2台のパソコンが必要になります。当然、いい通信状態を確保するならインターネット回線も2つ要ることになります。

さて、ビンボーな環境の中でこれらの問題をどうクリアするか。幸いパソコンは本格稼働しているものが2台あり、一つはセカンドライフを走らせているMac OS Xのもの、もう一つはOS 9.1のものです。必然的に9.1のMacで楽器の音を取り込み、サーバにアップすることになりましたが、このアップするためのソフトというのが大変でした。サーバはセカンドライフで使った人もいるというライブドアのねとらじで試すことにしたのですが、ねとらじで実績があり、OS9.1で使えるソフトとなるとMac Ampというソフトくらいしかないのですが、これがオフィシャル・サイトはクローズしていて入手困難というものなのです。が、執念であるサイトを見つけダウンロードしました。となると、あとは回線の問題。これまで導入していなかったのが不思議なくらいですが、ブロードバンド・ルータを買ってきて2台のパソコンを接続し、OS 9.1でアップした音をOS X側のパソコンで聴くことができました。とりあえずはねとらじを使ってのストリーミングの実験自体は終了。となれば、いよいよセカンドライフ内でうまくいくかどうかです。

というわけで、技術的な前置きがかなり長くなりましたけれども、前回ご紹介しました pira Noel さんが Hakata のお店の隣の部屋にピアノを持っているので彼女に連絡します。「今からライブの実験やりたいのですが……。」「いいですよ〜。」ここで考えたのです。ただあの部屋でピアノ弾いてもおもしろくないよねぇ。きっと彼女はまた写真撮ってくれるだろうから、だったら絵になるようにしたいねぇ。そう思って彼女に言ったのは、「お手数ですけど、ピアノをHakataからKaruizawaの水族館に持ってきてもらえませんか?」そうです! 海の底にピアノを沈めてそこで弾こうというのです。海の底でタキシード着てピアノ弾くなんて、これはもう仮想世界ならではなんではないでしょうか。で、折角なので pira Noel さんをご紹介下さった kyoko Infinity さん——そう、ネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」でもおなじみのあのKyokoさんです——にも連絡します。「行く行く!」と文字通りの二つ返事。というわけで、3人Karuizawaの水族館に集まったところで、リアルの世界にいる私が演奏を始めます。実際の演奏より15秒ほど遅れてセカンドライフ内で音が鳴り始めました。

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海底でピアノ演奏中のHiroshi Kumaki


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pira Noelさんの後ろ姿(水着だ!)
——中央上の方にはイルカと戯れる kyoko Infinity さんの姿も

演奏が終ってから聴いてみたら、2人とも聞こえていたとのこと。同時に経験できたようです。私のADSL回線も、音楽データのアップとセカンドライフを走らせるのを難なく同時に処理してくれました。いや、アップに使った古いOS 9.1のマシンもよく頑張ってくれました。

それにしても、とっさの思いつきとは言え、海底での演奏会というのはなかなか美しく素晴らしいものでした。ミュージカル出身の kyoko Infinity さんも踊りたくてたまらないご様子。最近、ある席で、もしかしたら気が違ってるんじゃないかと思うようなことがひらめくかもしれないけど、そのひらめきを自分で抑えたり否定したりしないで、メモして実現するかやってみなさいという話が出たことがあったのですが、皆それを思い出し、「ピアノを海の底に沈めて弾くなんて気が違ってるよね。」「しかも博多にあるピアノを今すぐ軽井沢に持って来いだなんて。」と大笑いしました。こういうことが簡単にできてしまう仮想世界だからこそ、新しい可能性が生まれてくるのかもしれないと。

というわけで、今回の実験の結果に満足した私たちは、ここで実際に人を集めて演奏会を開くことにしました。いろいろと準備がありますので、秋になってからのことになるとは思いますが、その時はまたこのブログ等を通じてお知らせしますのでどうぞよろしくお願いします。

長くなりました。今日はこの辺で。


P.S. 今晩は定期メインテナンスのため、日本時間で8月23日(木)午前0時〜3時の間はセカンドライフに接続できなくなっています。詳しくはリンデン・ラボ社のオフィシャル・ブログをご覧下さい。


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August 22, 2007

セカンドライフ〜pira Noel さんの水族館

日本ではセカンドライフというとお金儲けやビジネスの話ばかりが先行しているきらいがありますが、セカンドライフのモットーは "Your World. Your Imagination." 日本語版では「あなたの世界。あなたの想像力。」と訳されています。あらゆる「現実」の制約をとっぱらったところで自分の想像力を最大限に羽ばたかせてみる場だと私は考えています。で、実際にいろいろものを作り始めたり、話題のスポットを訪れてみてすぐに気づくことですが、せっかく空も飛べる、どんな格好でもできる空間にいるのに、人間、なかなか保守的なのですね。

例えば私なども、自分の店を建築し始めて笑ってしまったのですが、どうしても店というと地面に柱を立てて、床を、壁を、天井を、屋根を、と考えてしまうのですね。床は日本古来の高床式を取り入れたのですが、そこに上がるのにちゃんと階段をつけました。空飛べるからそんなものいらないのにね。(笑 屋根もガラス張りのものを考えていましたが、考えてみるとここでは雨も降らないし、寒くもないし、寧ろ天井や屋根がない方が、そのまま飛んで上から出られていいな、とか考え始めて途中でやめてしまってます。

そうやって自分でいろいろ考えながら作っていると、当然、人が創っているものが気になりますね。で、あちこち見ながら気づいたのは、結構みんなリアルなもの創るのにこだわってるようだということですね。そうでない人でも、スターウォーズやガンダムで見たような、SFチックなものだったりして、要するに、どこかで見たような、という点では変わりないのですね。自由に何でも創っていいよ、と言われた時に、本当に想像力を羽ばたかせて自由に、これまでなかったような新しいものを創るのってなかなか難しいんですね。

そんな時に知り合ったのが pira Noel さんという女性ですが、この人は Hakata に Cosmic Tree Cafe、Karuizawa に Cosmic Tree Aquarium という水族館をテーマにしたお店を展開しているのです。これがよかったですねー。とても幻想的な空間で、とても落ち着き、癒されるのですね。そうそう、このブログで何度も触れているいだきしんさんのピアノ曲が流れているのがまたいいんですね。

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Karuizawa の Cosmic Tree Aquarium

私が特に気に入ったのは、Karuizawa のお店にある水族館の方。ここは、本当に海の底にいるようで、いろんな魚が泳ぐ中を散歩したり泳いだりできるのです。アクアラングも着けずに簡単にこんな空間に遊ぶことができるのは仮想空間ならではですね。お魚と一緒に泳いだり、そう、私もイルカに乗ったりしたのですが……。

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イルカに乗る、というより座ってる Hiroshi Kumaki 君

乗るのに失敗して、横向きに座ってしまいました。(笑 それでもイルカ君は文句一つ言わず、私を乗せて海の中を遊泳するのです。その間、いろんな魚とすれ違ったりして。これがなかなか気持ちいいのです。思わずいつまでもイルカに乗って過ごしてしまうような、いつまでもいたい気持ちにさせてくれる空間です。

この水族館にはかなり刺激を受けてしまいまして、私自身も自分のお店の方針を見直しているところです。刺激的なスポットは結構あると思いますが、刺激だけであれば、現実の世界にもたくさんあります。それよりも、現実の世界で誰もが夢見ながらなかなか実現の難しいような美しい空間を創るということに力を入れるべきなのではないか、そんなことを考えさせられたんです。そしてそういう美しい空間が広がっていけば、同じく現実の世界で難しいと思われている平和とか愛とか、人間なら誰もが望むものが実現していける、そんな風に考えたのです。

今日ご紹介した pira Noel さんの2つのお店、本当に美しく、気持ちのいいところですので、一度訪れてみて下さい。SLURLは次の通りです。

●Cosmic Tree Aquarium
http://slurl.com/secondlife/karuizawa/244/230/21

●Cosmic Tree Cafe
http://slurl.com/secondlife/Hakata/139/239/23

それでは、また。


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August 21, 2007

『スノウ・クラッシュ』〜メタバース再び

前にメタバースについて書いた時に、この言葉がニール・スティーヴンスンの『スノウ・クラッシュ』という小説から来ていること、そしてこの本はハヤカワSF文庫から出ていたが、今は品切れ中の旨述べました。が、実は、あのブログを書いた翌日、新宿の某書店で運良く新刊本として手に入れることができたのです。ここは、いつも私が、ここになかったら東京の本屋にはない、と考えている、そういう本屋です。

その『スノウ・クラッシュ』では、メタバースについてどんな風に述べられているか、ちょっとここに引用しておくことにしたいと思います。

「……彼はいま、このユニットにはいない。彼がいるのはコンピュータの作り出した宇宙であり、ゴーグルに描かれた画像とイヤフォンに送り込まれた音声によって出現する世界。専門用語では”メタヴァース”と呼ばれる、想像上の場所だ。ヒロは、このメタヴァースでほとんどの時間を過ごしていた。ここには<貯蔵庫>のような嫌なことはない。

「ヒロはいま、<ストリート>に近づいている。メタヴァースのシャンゼリゼとも言える、明るく照らし出された大通りだ。ゴーグルのレンズに映って小型化した、現実には存在しない通りを、何百万という人間が行き来している……(中略)……。

「現実世界と同様、この<ストリート>でもつねに開発が続いている。開発者たちは、メインストリートから枝分かれした自分だけの小さな通りを設定して、そこに建物や公園などを作る。それだけでなく、頭上の広大な空中に浮かぶライトショーとか、三次元の物理法則が無視された特殊空間とか、中にいる人間同士が殺し合うフリー・コンバット・ゾーンといった、現実世界には存在しないものも作ることができる。」(ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ(上)』(2001 ハヤカワ文庫SF1351 P44〜46)

ゴーグルをつけてアクセスする、という点が違うものの、基本的にはセカンドライフはこのSF小説の世界をそのまま現実化したもののように思えますね。いや、セカンドライフでは最近、ボイス機能が搭載され、専用のヘッドセットなんかも出てきてますから、そのうちヘッドセットと一体化したゴーグルも出てくるかもしれない。そうなるとますます面白くなるでしょうね。

さて、そのセカンドライフでは自分のアバターを使って生活するわけですけれども、この "avatar"=「化身」というサンスクリット語をこの世界に持ち込んだのもこの『スノウ・クラッシュ』のようですね。再び引用します。

「もちろん、彼がいま見ているのは、現実の人間ではない。光ファイバー・ケーブルを通って送られてくるスペックにそって、彼のコンピュータが描き出した動画の一部だ。人間の画像は”化身(アヴァター)”と呼ばれるソフトの一部で、視聴覚体(オーディオビジュアル・ボディ)を使ってメタヴァース内でのコミュニケーションが行なわれる。ヒロのアヴァターも<ストリート>にいて、モノレールを降りてくるカップルたちが彼のほうを見れば、ヒロが相手を見ているのと同じく、むこうも彼を見ることができるわけだ。

「さらに、会話を交わすこともできる。一方はロサンジェルスの<貯蔵庫(ユー・ストア・イット)>にいるヒロ。他方は、おそらくシカゴあたりの郊外でカウチに寝そべりながらラップトップ・コンピュータに向かっている、四人のティーンエイジャーたち。だが、双方が言葉を交わす可能性は、現実世界にいるときよりもさらに少ない。ちゃんとした若者なら、刀を差して一人で歩いているようなオーダーメイドのアヴァターに、声をかけたりしないのだ。

「アヴァターは、使っているマシンの能力が許すかぎり、どんな姿かたちにもすることができる。実物の自分が醜ければ、ハンサムなアヴァターにすることもできる。現実世界ではベッドから起きたばかりでも、アヴァターにはきれな服を着せ、プロ顔負けの化粧をすることもできる。ゴリラだろうがドラゴンだろうが、巨大なしゃべるペニスだろうが、メタヴァースではなんでもありだ。<ストリート>を五分も歩いてみれば、そのすべてに出会うことができる。」(前掲書 P63〜64)

こちらもセカンドライフそのまんまですね。1992年と言えば私がパソコン通信を始めて、電子メールを使い始めたばかりの頃で、当時はインターネットなんて言葉も知りませんでしたが、そんな時代に、ここまで明確なイメージを打ち出している作者の想像力には脱帽ですね。

もともと、「メタバース」って一体何なの、という疑問から始まって、その出典とも言えるこの本を読み始めることになったわけなのですが、はっきり言って、この本、メチャクチャ面白いです。主人公が仕事にあぶれたハッカーで、ピザ配達の仕事と、いろんな人や会社の内部情報を手に入れてはそれを売って暮らしている日系人のヒロという少年と、お母さんには内緒で、マクドナルドのトイレで着替えてはスケボーで書類などを届ける<特急便屋(クーリエ)>の15歳の少女Y・Tという二人の主人公が実に魅力的なのだ。「ニッポニーズ」と呼ばれる日本人のカリカチュアも笑える。ヒロが売ってるような情報は「インテル」と呼ばれている。ヒロの同居人は「チェルノブイリ」という名のウクライナ人で、彼がやってるバンドの名前はメルトダウンズ=原子炉の炉心溶解だ! 市場原理が公平に働いた結果、この時代のアメリカが誇れるものは、音楽と映画とソフトウェアとピザ配達だけだ、というのもまた笑える。世の様々な現象を嫌みな皮肉でなく笑い飛ばしながら、登場人物たちは実に現実味があって共感でき、何よりこの文章のテンポがいい。これはもう、SFなんていうジャンルに留めておけるようなものではなく、良質の文学です。久し振りにおもしろい本に出会った、という感じです。セカンドライフとかメタバースとかいうことを離れても、是非手に入れて読んでみられるといいと思います。お薦めです。

それでは、また。


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August 20, 2007

ゴキブリ!

あの、暑かった先週末の金曜日のことである。帰宅すると早くシャワーを浴びたくて風呂に向かった。と、何とゴキブリがいるではないか! それもデカイ! 以前、ゴキブリが大発生したことがあったが、ホウ酸ダンゴを買ってきて部屋のあちこちに置いたところ、見事翌日から全く見なくなった。みんな死んだはずであった。今いるやつはその大きさから見ると、この時を生き延びてきたやつに違いない。賢いやつで、ホウ酸ダンゴを怪しいと見て相手にしなかったか、或いは口にして苦しんだものの、何とか生き延びた、生命力の強いやつだ。許すわけにはいかない。僕はとっさにシャワーを手にとって排水口からこいつを流す作戦に出た。

ところが、さすがにここまで生き延びてきたやつだ。しかも賢いやつだ。僕が何を考えているかはよくわかっているらしかった。何とか風呂の壁面に辿り着き、そこから這い上がろうとする。僕は僕で許さじと、シャワーの水で叩き落とそうとする。ここに長時間にわたる格闘が始まった。やがて、水攻めでぐったりしたのか、ゴキブリは全く動かなくなって、ぷかんと水に浮いている。死んだか? いや、僕はよく知っているのだ。ゴキブリの生命力の強さを。あのホウ酸ダンゴを生き抜いてきたゴキブリである。こんな程度で死ぬはずはない。死んだふりをしているに違いないのだ。僕は見守った。風呂の底に溜まった水がどんどん退いていく。ゴキブリも排水口に向かって流れていく——。と、正に、排水口から落ちていきそうになったその瞬間、こいつはそこから這い上がろうと、見事な素早さで動き出したのだ。やっぱり!

2回戦が始まった。同じ事が繰り返される。やはり風呂の壁から上がろうとするゴキブリ、うまく行かないと見るとまた死んだふりをする。が、排水口近くに来るとまた動き出す。こうしたことが繰り返されるうちに、僕はこのゴキブリにだんだん共感を覚えてくるのであった。何度叩かれても叩かれても、死んだふりしてまでも、這い上がってくるこのゴキブリ。しかも、排水口のところで動き出すところを見ると、自分にとってどういう状況が一番まずいかもよくわかっているのだ。このしぶとい、諦めることを知らないゴキブリを見ながら、自分はどうなんだ? 何でも簡単に諦めたりするようだと、このゴキブリ以下ではないか、なんて声が聞こえてきたりする。

私の執拗な水攻めに、最初は巨大な、黒光りしていた憎たらしい面構えのゴキブリも、弱々しく、ボロボロであわれな姿となっていた。本当に、こいつを殺す必要があるのか。同じ生命ではないか、などと憐れむ心が生まれてくる。わかったよ。負けたよ。俺の負けだよ。見逃してやるから早くどっか行ってくれ。しかし、ボロボロのゴキブリはもう風呂の壁を上がっていくだけの力はないようであった。上がろうとしてはズルッと下に滑って落ちる。やがて這い上がるのはやめて、同じ場所でじっと回復を待っているようであった。そしてそのうちにまたゆっくりと登り始めた。今度は確実に登り始め、やがて壁を伝い、天井近くまで上がっていった。そこでこいつは再び止まった。膠着状態であった。なるほど、僕がここにいる以上は、こいつも逃げ道がないのであった。この状況を打破するには、どうにかして僕に逆襲するしかない、という感じである。そのチャンスを窺っているようではないか。そしてそれは同時に、回復の時間を稼いでいるようでもあった。そして、おお、見よ! 先程はボロボロで哀れ催していたこいつは、今また黒光りする憎たらしい姿へと戻っているではないか!

騙された! 膠着状態を破ったのは僕の方だった。再びシャワーの水で排水口へと叩き落とした。うまく排水口へと誘導できた。こいつも必死でそこから脱出しようとする。僕はと言えば更に水圧を上げる。そのうちにドンという音がしてゴキブリは消えた。多分、一旦はパイプに詰まったあいつが水に流された音だろう。

かくして、このゴキブリは見えなくなった。が、暫く僕は排水口を見守っていた。これほど長時間にわたって戦い続けた生命力の強いあいつのことである。死んだふりして排水パイプに潜んでいて、また再起の機会を、そして復讐のチャンスを窺っているに違いない。そう、僕が寝入った頃襲ってくるかもしれないではないか。確かに死ぬところを確認できない状況を作ったのは失敗であった。

とは言え——。あのゴキブリが生きていて復讐されることを怖れているということは、生きていてほしいと心のどこかで願っているということではないのか? そんな自分に気づいておかしくなってしまった。そうなのだ。あの長時間にわたる戦いの中で、あいつは僕に何かを教えてくれたゴキブリなのであった。

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August 14, 2007

メタバース、SF、そして人間の想像力

セカンドライフが盛んに話題に上るようになるのと同時に急速に広まってきている言葉があります。「メタバース」です。やたらと、これからはメタバースだメタバースだ、と言われるようになってきたのはいいのですが、そもそもメタバースとはどういう意味なのか。仮想現実の3D空間という意味で用いられているようですが、もともとどういう英語なのか。更に、セカンドライフの関連で「メタバーズ(Metabirds)」という会社もあるので、話はますますややこしくなります。

「メタバース(Metaverse)」はもともとニール・スティーブンスンが1992年に発表したSF『スノウ・クラッシュ』で導入した概念、言葉で、セカンドライフがそうであるように、アバターを通じて仮想空間の中で他のアバターと面と向かって会話し、社会的、経済的生活を、あたかも現実生活と同じように、更には現実生活で生ずる様々な制約から離れて活動できるような仮想空間のことを言うようですね。現実世界の「ユニバース(universe)」に対して「メタな」つまり、コンピュータ世界に転換された「宇宙」という意味で「metaverse」となったのでしょう。お恥ずかしながら、私自身このSFは読んでいないのですが、ここで提唱されたメタバースの概念の殆どが実現しているのがセカンドライフと言えそうで、それがセカンドライフと共にこの言葉が普及し始めた理由でもあるのでしょう。(原作はハヤカワSF文庫から出ていましたが、残念ながら現在は品切れのようです。)

しかし、それにしても、1968年のフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、その約10年後にこれを映画化した「ブレードランナー」、1982年のディズニー映画「トロン」、1984年のウィリアム・ギブスンによる『ニューロマンサー』、そして1992年のニール・スティーブンスンの『スノウ・クラッシュ』と、ほぼ10年単位で発表されてきた影響力のあるSF作品が描いてきた世界が、とうとう現実のものとなってきたというのは感慨深いものがあるのと同時に、近年ヒットした映画「マトリックス」なんかが急に色褪せて見えてしまう。今ここに挙げたような作品群の方が余程予言的に思えます。(正直言うと、『ニューロマンサー』は以前、最初に読んだ時はよくわからなかったのだ。今読み返すと「グリッド」とか「マトリックス」とか、重要な概念は全てここから出ている。)

インターネットが普及して、人類はSFの世界に追い付いた、もうSFなんてつまらないと思ったけれども、とんでもない。人間の想像力というのは常に先に先に新しいものを生み出していくものなのですね。そしてその想像の世界を実現していこうとするのもまた人間。人間の想像力って素晴らしいですね。

そんなわけで、久し振りにSFを読みたくなったタンゴ黒猫であります。


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August 13, 2007

増える無料サービス

業務用のソフトウェアには、スタンダードと言えるものがあります。事務処理だったらマイクロソフト・オフィス(ワードやエクセル、パワーポイント等)、画像処理だったらフォトショップといったところですが、これに更にクリエータ系のイラストレータや、フラッシュ、それから文書処理という意味ではアクロバットなんかを加えてもいいかもしれないですね。今挙げたようなソフトは何れも割と普通に、どこのオフィスでも使用するほど普及しているにも拘らず、どれも高価ですね。マイクロソフトのオフィスなんかは、少なくともWindowsのOSには標準添付していいんではないかと思いますし、アドビのものも、組み合わせて使うケースが多いことを考えると、これらを全部揃えるのには、かなりの出費となりますね。違法コピーが絶えないのには、こうした普通に使われているソフトがあまりにも高いことも一因だろうかと思うことがあります。

その一方で——。

世の中無料のサービスというのがどんどん増えてますね。この状況を最も牽引しているとも言えるのが、やっぱり、グーグルですね。実は、今日Google Docs & Spreadsheetsを使ってみました。これはワードやエクセルがインストールされていなくても、Web上でワードやエクセルのファイルを開いて編集できるもので、なかなか強力です。ワードもエクセルも、それぞれ完成の域に達しているソフトですので、それに比べるとまだまだ操作性などの面で不十分なところもあるでしょうが、それも時間の問題と感じました。私はエクセルでいろいろな自動処理をさせることが多いのですが、Spreadsheetsは、かなりの関数機能が組み込まれており、かなりのことができるように思いました。で、勿論、Web上で作業してWeb上に保管されるわけですから、例えば外出先でいつも使っているパソコンがない場合でもインターネットに接続できさえすればどこでもその資料を利用できるわけです。これは考えようによっては、そして使い方によってはすごいです。イントラネットやLANでつながっていなくても、グループで利用して常に資料を最新に保つこともできるわけですからね。

グーグルは例の「グーグル・アース」や、本の中身も見ることができる検索システム、グーグル・ニュースやユー・チューブ、簡単な翻訳ツールもあって、これらの便利なツールを何れも無料で提供しています。ともするとグーグルのサイトにアクセスすれば、大抵の用は足りてしまうほどになってきています。

便利なソフトなのだから高いのは当たり前——もうそんな常識は崩壊しつつあります。ブログのサービスも無料なのはもう当たり前ですし、ユー・チューブなどの動画配信も同じ。そう言えばセカンドライフも無料で遊べますね。こうした便利な無料サービスがどんどん当たり前になってきているのが今の時代ではないでしょうか。そして無料が当たり前になってくると、わざわざ高いソフトをお金を出して買う人も減ってくるのではないでしょうか。

グーグルも、マイクロソフトも、アドビも、みんな、頑張れ!


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August 12, 2007

暑い!

暑い日が続いています。ここのところ毎日のようにニュースのトップに出るほどです。私自身はと言えば、仕事で昼間は部屋の中にいることが多いのであまり感じることがなかったのですが、日曜日の今日は久し振りに日中散歩に出ました。確かに暑い。

そう、確かに暑いのですが、皮膚に太陽の熱を感じ、それがじわっと身体の中に入っていくのを感じると、寧ろ心地よくさえ感じます。ああ、そうだ、忘れていた、この感覚だ。太陽の光と熱とが身体にしみ込む感覚——。

ものを買いにお店に入ると強烈な冷房。寧ろ、こちらの方が具合が悪くなるようです。異常気象だとか何とか天気が悪いような言い方をしますけれども、本当はおかしいのは私たち人間の方かもしれないですね。私たちは自然を、地球を我が物として自分たちのやりたい放題にし過ぎたのではないでしょうか。

散歩しているとあちこちに蝉の死骸が目に入ってきます。というか、家を出たところ、私の家のドアのところに既に2匹も死骸が落ちていました。今年は6月に雨が降らず、梅雨が来ないのかと思っておりましたら、7月には雨の日が続き、今度はなかなか梅雨明けしない。で、梅雨が明けたと思ったらいきなりの暑さと蝉の大量発生。話には聞いていましたが、こんなに身近にあちこち死骸が落ちているとはちょっと驚きでした。

蝉というとはかない命の象徴のように思われますが、どうしてどうして。それは地上に出てからの生活しか私たちが見ていないからですね。多くの蝉が7年地下で暮らしているのは有名な話ですね。しかし種類によっては11年とか17年とかもっと長いものもあります。注目すべきはこの7とか11とか17とか、何れも素数であるという点ですね。

全ての生命に共通するのは、次の世代へと生命をつないでいく、つまり子孫を残すのが最大の仕事であるということですね。どんな生物でも、厳しい環境の中で、確実に、しかも様々なヴァリエーション(多様性)をもって子孫を確保しようとします。蝉の場合は、同時に大量発生して、食べ物をはじめ環境を利用し尽すことで、逆に自らの生命維持に危険をもたらさないよう、種類によって見事に素数の年月で分れたようですね。もし2年ゼミ、3年ゼミというのがいたとしたら、これらの蝉は6年ごとにベビーブームを迎え、それが種の存続に危機をもたらしますが、例えば7年ゼミと17年ゼミのベビーブームがぶつかるのはその最小公倍数である119年に一度、ということになります。蝉が長い間地中で過ごすのは、正に確実に子孫を残すため、ということになります。

果たして私たちはどうか。あまりに地球の資源を濫用し過ぎてはいまいか。そして子孫のことより今自分が生きることに夢中ではないか。それでいて、自然に、環境に、不満ばかり抱いてはいまいか。

折角の夏だ。もっと日の光を浴びよう。この暑さを楽しもう。そして汗を流そう。こういう時の汗こそ、身体の中に溜まった悪いものを外に出してくれるのだ。汗をかかないようにすることこそ不健康だ。そう言えば、若い頃、こんな夏の暑い日、バドワイザーの缶を1本だけ空けて、太陽の下で汗をかきながら昼寝したのを思い出す。飲んだものも全て汗となって吹き飛び、目を覚ます頃にはすっかり酔いも抜けているのだ。太陽は、やっぱり、いい。

暑い夏の久し振りの散歩。ふとそんなことを考えながら歩いていたのでした。


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「高句麗伝説」ヨルダン・ジェラシュ遺跡コンサート

昨晩はセカンドライフで花火大会があったという話を書きましたが、私には更にその後もう一つイベントがありました。それは、高麗恵子さんといだきしんさんによるヨルダンでの「高句麗伝説」コンサートです。昨晩の深夜3時からインターネットでライブ中継されたものを縁あって見ることができました。

ヨルダンのジェラシュ遺跡でのジェラシュ・フェスティバルの一環として行なわれたこのコンサートの映像は、夢の世界か、或いは神々の国か、どこか不思議で幻想的な、美しく明るい世界を現出していました。その中での高麗恵子さんの詩の朗読も、いだきしんさんの演奏も、どこまでも明るく、やさしく、心地よいのでした。光溢れる世界は、もう、遠いどこかの話ではない、私たち一人一人がそのように生きようとするならば、今ここにあるのだと確信させる、心地よい、幸せなひとときでした。

その高麗恵子さんといだきしんさんのお二人による「詩と語り」の催しが、帰国直後の8月17日(金)横浜市開港記念会館にて行なわれます。この古く趣のある建物での催しでは、私はいつも落ち着いた中で深い体験をさせて頂いています。是非お誘い合わせの上いらして下さい。詳しくは、株式会社いだきのホームページをご覧になるか、またはこのブログへのコメントでお問い合せ下さい。

それでは、また。


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セカンドライフでの花火大会

昨晩はセカンドライフの日本人居住区で花火大会がありました。50万発という驚異的な数の花火を打ち上げることができるのも、そして日本人居住区ではどこにいても見られるというのも仮想世界のセカンドライフならではですね。セカンドライフならでは、と言えば、花火を目の前で見ることもできるのもセカンドライフのいいところ。つまり、花火を見上げるんではなくて、上空に飛んで行って、花火を正面から見ることもできるのです。実際、私以外にも、同じ地域の人は半数以上の人が飛んでみてましたね。一度間違って真下に行ってしまったりしましたが、これはこれでなかなか迫力がありました。何と言っても花火が上から降ってくるわけですから。現実世界だったら危険極まりなく、そもそもそんなエリアに入ったら注意されること間違いなしですが、火の粉が降りかかってきても火傷しないのも仮想世界のいいところですね。こんな経験は他ではできないでしょう。

というわけで、その花火大会の模様をいくつか写真に収めてきましたので、ご紹介することに致しましょう。「スナップショット」という機能を使うと見えている画面を画像ファイルに保存できるのですが、いちいち「スナップショット」ボタンを押すのは面倒で、また操作性も悪いので「Contrl」+「Shift」+「S」というショートカットを使います。それでも、うまくシャッターチャンスに合わないのは、現実世界のカメラと同じ……。(笑

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こうして写真に撮ると、花火というよりは色と光の渦のような感じになりますね。火花の一つ一つを絵で表現してそれを動かしていくわけですからすごく手が込んでますよね。

手が込んでいると言えば、仮想世界の花火にも「型もの」があるのには驚きました。これは、よく猫の顔とかニコニコピースマークとか、更にはどらえもんやアンパンマンといった絵を浮かび上がらせる花火ですが、セカンドライフの花火にもこうしたものがありました。あんまりうまく撮れてませんが、次の写真の左の方、何だか顔みたいなものが写っていますでしょう?

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セカンドライフでは現実世界にある大抵のものは実現可能のようですね。しかも現実世界とは違う技術でできてしまいます。花火を打ち上げたのは現実の世界では花火の技術なんかない人でしょうし、建築設計の知識のない私が自力で建築を進めているのもそんな例の一つですね。建築については、先日セカンドライフ内で知り合った人と話して笑ったのですが、造って失敗したり気に入らなかった場合は、ぶっ壊してまた別のを造ればいいのです。現実には壊したらいろんな廃棄物が出ますし、壊すのにも新たに造るのにもきっと何億というお金もかかるでしょうが、そんなもの気にする必要もない。セカンドライフは、リスクを負わずにいろんな可能性を試せる場であるとも言えますね。だからこそ、この世界に入ってくることが、個人にとっても企業にとっても重要なことになってくるわけです。

最後に、花火と言えば、私の分身Hiroshi Kumaki君の敷地内ではビデオを見ることができますが、現在、私が以前ネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」で発表した「花火」という曲に、昨年某所での花火大会で撮影した映像をつけて編集したものを見ることができます。Hiroshi Kumaki君の敷地は「Toshimaku」の、中央に案内板が置いてあるところを右手に入った2つ目の場所です。その場所にテレポートするためのSLURLはhttp://slurl.com/secondlife/Toshimaku/183/139/22です。まだ建造途中で何もありませんが、大きなスクリーンが置いてあり、その前に立つと、画面の右下にビデオをプレイしたり停めたりするボタンが現われますので、プレイボタンでビデオ見ることができます。よろしかったらお立ち寄り下さい。

それでは、また。

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August 11, 2007

「思い」ということ

8月——夏休みでテレビでは戦争に関するものをはじめ、いろんな特集が組まれているからかもしれないのですが、最近やたらと「思い」という言葉を聞くようで気になっています。日本人はこの「思い」という言葉が好きだなぁ、と常々「思う」のです。そう、今私自身がそう書いたように、日本人の文章には「思う」というのがやたら登場しますね。以前、自分が書いたものを英語にしようと思って気づいたことがあります。短い段落の中に何度も「思います」「思う」という表現が出てくるのに、英語にするとこれらの言葉は全て省かれ、全て断定的な表現になるのですね。日本語では「思う」と書かないと落ち着かないのか。一方、「思い」の方は、これはもう、かなわぬ恋、あこがれのあの人への「思い」が繰り返し詠われたあの古代からの伝統、というよりは遺伝子的に私たちの身体の中に入ってしまっているのでしょうか。

今、「思い」について、かなわぬ恋を連想してしまいましたが、しかし、「思い」の正体は正にそうなのです。これはいだきしんさんを講師とする「いだき講座」を受講した時に学んだことなのですが、「思い」は「重い」なのです。つまり、動かない、実現しないものです。「思いが強い」という状態は、もう頭の中がいわば妄想で一杯になって、全く動けないことを言うのです。これは私自身経験してきたことです。今のこの時期、「平和への思い」という言葉がよく聞こえてきますが、私たちは「平和」を、もう、思うだけではなくて、実現するために動かなければなりませんね。

「思う」に対する言葉は「考える」となりますが、これも同じ頭の中でのことではないか、とおっしゃる方もあるでしょうが、同じいだきしんさんによると、「考える」とは「動く」ことなのだそうです。動かないと考えられない。じっと頭を抱え込んでみても、何にも考えられない、確かにそうですね。頭の中だけでいろいろ思ってみても、ああでもない、こうでもない、もしこうなったらどうするか、とか、グルグル回るだけで疲れてしまいますけれども、実際に動いてみると、良くも悪くも必ず何か結果が出ますから、その結果を見てまた次どうするか考えられるわけです。この繰り返しで、必ず現実は動いていきますね。

テレビで話している人たちのことをじっと聞いていると、どうも「思い」と「考え」がごっちゃになっているようですね。「思い」が、本当に勝手な個人的な思いの人もいれば、ちゃんと「考え」になっていて、実現に向かい行動している人もいますもの。でも、どちらにしても、単なる妄想に終らせず、実現したいのは誰しも同じでしょう。そのためには、「思い」「思う」という言葉を使わないよう気をつけてみること。そして、自分の頭の中にあることが「思い」なのか「考え」なのか、考える癖をつけることでしょう。

多くの人が心の中で夢に描いていること、それが「思い」でなく、「考え」として実現していく——その時この世の中はもっとよくなるのではないかと思い……、いえ、考えます。

それでは、また。


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August 10, 2007

ブログの効用

実はこんなことがありました。

前に、ベートーヴェンとヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人との恋について書いたことがありましたが、この時、改めてジュリエッタ・グィッチャルディとかテレーゼ・フォン・ブルンスヴィックのことをネットで調べていたのですが、グーグルで出てきたリストの中に、あ、これ、いい線行ってそうだな、私と同じようなことに興味を持つ人がいるもんだな、と思ってよく見たら、何と自分が前に書いたブログの記事でした。(笑 で、翌日、ヨゼフィーネのことで検索していたら、何と前の日に書いた自分の記事がやっぱり出てきたのですね。更には、先日、セカンドライフのジェスチャーについて書いてる人がいないかと思って調べてたらやっぱり自分の記事が出て来ました。

ブログというのはすごいなぁ、と改めて思うのですね。記事を書いて1日2日したらもうグーグルの検索に引っ掛かるのですからね。いや、ブログのしくみもすごいし、グーグルの検索システムもすごい。で、自分の記事が上位に上がってくるほど(登録件数の少ない)マニアックな記事を書いたりマニアックなキーワードで検索してる自分もすごいなぁ、と我ながら呆れているところです。

冗談はさておき、こうしたブログの検索にかかりやすいしくみを大いに利用したいものですね。殆ど、日々思いつくままに綴っているだけですが、本当に自分が人に伝えたいことを、求めている人が検索しやすいキーワードをちゃんと入れながら書いていくことがますます重要になってきていると感じるのです。折角ネットという、何億もの人が見られる舞台で書いているのですからね、もっともっと大事なことは人に読んでもらえるように書かないと、と思うのです。

それでは、また。

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August 09, 2007

セカンドライフに障害〜そして日本の若者たち

セカンドライフ、また障害が出てますね。今回はログインができないということで、こうなるともうどうしようもありませんね。原因はまだ不明なようで、リンデンの方々も最善の努力を払われているようですが、かなり難しいようですね。やっぱり急に人口が増えたことが影響してるのかな?

さて、何度も書いていますように、セカンドライフでは人種も階級や職業も、性別も、そして姿形も、自分の好みで生まれ、生きることができるわけですけれども、そんな仮想世界で遊ぶ一方で、現実の、若者たちが集う街、渋谷を歩いていると、おもしろいなぁ、と思うことがあります。

それは、渋谷を歩く若い人たちのファッションというのは、本当に自由だなぁ、と思うのです。金髪で、青い眼をして、本当に欧米人みたいな人がいる一方で、アフロな人もいたり、ラスタな人もいたり、日本の若者というのは、何人の格好をしても決まってる、カッコイイなぁ、と思うのです。これは、例えば、黒人が無理して髪をストレートにして、肌も白くしようとしたり、或いは逆に白人が黒人や東洋人の真似をしようとしても様にならないということを考えると、実はすごいことなのではないでしょうか。そう言えば、日本の女性の皆さんはご存知でしょうか? 欧米の女性が憧れる髪というのは、本当のブロンド——本当のブロンドというのは欧米人にも殆どいないのだそうです——か、東洋人のような、しなやかで黒い髪の毛だということを。それから、渋谷や原宿の若い女性たちのファッションは、ファッションの都に生きるパリジェンヌたちの憧れなんだそうです。

セカンドライフのような、もう一人の、こうありたい自分、という仮想世界がアメリカで生まれたのは、ある意味で必然のような気もします。何故なら、日本の若い人たちは、自分がカッコイイ、カワイイと思うスタイルを生きることができてるわけですからね。私たちはこの幸せにもっと気づいていいのかもしれませんね。

それでは、また。

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August 08, 2007

セカンドライフで土地を借りる!

ムフフフフ。実はセカンドライフに土地を借りたのです。現実の私は狭い1Kのアパート暮らしですが、分身のHiroshi Kumaki君は約千平米の土地を自由に使える身となったのです。

まだ殆ど更地状態ですので詳しい案内はしませんが、今日はそこでいろいろな実験を試みました。その土地の中でストリーミングによる音楽が聴けるようになるかどうか、同じくストリーミングによって映像を流すことができるかどうか、などです。音の方の設定はすぐにできました。引き続いてはビデオの設定です。いよいよセカンドライフで最初の建造にかかります。8m×6mのスクリーンを敷地の真ん中に建設、無事外部のWebサーバに置いたビデオが流れました。

とりあえず今日はここで終わりにしたので、今私の土地には何もないところに映画「2001年宇宙の旅」の石碑(モノリス)よろしくスクリーンだけが建っているのです。人は何と思うでしょうね。

で、ここからです。活動の拠点となる建物を造ることになります。セカンドライフで建築を専門にやってる人から買ってもいいのですが、折角ですからここは自分で建築に挑戦してみよう、ということで、これまでやったこともないのに今度は建築デザインに手を染めることになってしまいました。

で、すっかり気分は建築デザイナーとなってしまいまして、仕事の帰りに本屋に寄っては、実に久し振りに建築関係の雑誌に目を通して先端の傾向を頭に叩き込んだりします。おもしろかったのは、やたらとル・コルビュジエ関係の本が出てたり、特集が組まれていたことですね。これはどうも今六本木でル・コルビュジエの展覧会をやってるからのようですが、実は、そんなことを知らない私は、ここ3ケ月くらい、ずっと枕元にル・コルビュジエの『建築をめざして』という本が置いてあって、気が向いた時にパラパラめくっていたのです。不思議な偶然だなぁ、と思って。この本は古い本で、写真も古いのですが、そうでありながら、ル・コルビュジエのデザインは新しいなぁ、センスいいなぁ、と思いながら、そしてこの本に織り込まれたル・コルビュジエの建築に対する理念に、なるほどー、その通りだなぁ、と面白く読んでいたのです。

何て書いてしまうと、ル・コルビュジエ風の建物ができるのか、なんて期待させてしまいそうで、寧ろ本当に素人ですのでそんなものは期待すべくもないのですが、自分で建物をデザインするということにちょっとワクワクしているタンゴ黒猫であります。

最初に書きましたように、まだ案内できる段階ではありませんが、何か進展がありましたらここに書くことにします。それでは、また。


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August 07, 2007

男の魅力、女性の魅力

今日またセカンドライフ内で新しい人と知り合いになりました。例によって(?)女性キャラでしたが、なかなか可愛い動きをする人で、別れしなに「フレンドになってもらえますか?」と聞きましたら、「いいですけど、自分は男ですよ」とのこと。おもしろい人だったので、「勿論構いませんよ、よろしくお願いします」ということでフレンドになってもらいました。

自分の好きな性で生まれることのできるセカンドライフの世界ですから、リアルライフでは男でもセカンドライフでは美しい女性、という人は多いと思いますし、これまでセカンドライフ内で出会った女性の中にも本当は男、という人いるかもしれませんね。そうでありながら、今日のように敢えて男だと言われると、やはりちょっと驚かずにはいられません。

おもしろいのは、最初に書いたように、この女性キャラの人のことを可愛い人だ、と思ったことですね。ここで改めて男らしいとか女らしいとか、カッコイイとかカワイイというのはどういうことなんだろう、と私などは考えてしまうのです。

NHKの番組に「きよしとこの夜」というのがありまして、氷川きよしさんがホストで毎回いろんなゲストを招待してのバラエティ番組なのですが、この番組の最後に氷川きよしさんが女性ゲストに、男性のどんなところに魅力を感じますか、という質問をするのですね。で、その答に、男性視聴者である私は勿論、氷川さんもへぇー、という感じになるのです。大抵は男が思いもよらないところをカッコイイと感じてる。それを、タカラヅカの男役の方なんかが語ると説得力があるのですね。なるほど、あのタカラヅカのカッコよさ、美しさは、女性の目から見て男のここがカッコイイと感じてるところを女性が演じるからなのですね。

今日のセカンドライフの経験で感じたのは、リアルライフで男の人がセカンドライフで女性となるような人は、女性のこういう仕草、こういう立ち居振る舞いが魅力的なんだよね、美しいんだよね、と感じてる人なのかもしれないですね。そこにまた私のような男が反応してしまったのかもしれない。

男が男のこういうところがカッコイイと思ってることと、女性がそう感じてること、女性が女性のこういうところがかわいい、美しいと思ってることと男がそう感じてることは実は違うのでしょうね。そしてそれぞれが相手のためにいいと思って頑張るわけですからね。でも、きっと男には女性がいいと思ってること、女性には男がいいと思ってることは、一生、わからないのかもしれません。

で、あればこそ——。自分のことを好いてくれている異性がいてくれるということはありがたいことですね。一体自分のどこがいいと思ってくれているのか。きっとそれは自分がいいと思ってることとは違うのでしょう。その人のことをよくわかることが、自分のよさをわかることにつながっていく、そんな風に思います。


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ミュージシャンの耳

誰でも自分で音楽をやってみようという人は、リスナーとして、どこかで強烈な音楽体験があった人だろうと思います。私自身、子供の頃聴いたベートーヴェンの交響曲や、一連のロック音楽が、こういうのいいなぁ、カッコイイなぁ、と感じたところから始まっています。それがやがて、自分もこういうのやってみたい、自分だったらもっとこうしたい、と変化していき、ミュージシャンとなっていくのですが——。

不思議なことに、音楽を聴いている側だった時と、音楽を演る側になった時とでは、耳が違っているのです。このことをミュージシャンは得てして忘れがちなのです。先程書いたように、こういう音楽を作りたいというところで音を作っていくわけですが、それがそのミュージシャンが意図した通りに一般のリスナーに聞こえているかどうかはまた別問題だ、ということです。

わかりやすく説明すると、リスナーであった時は、例えばベートーヴェンの曲なら、そのサウンド全体がドンと耳に入ってくるのですが、ミュージシャンになった途端に、あ、今フルートがどう鳴っている、それが第一ヴァイオリンとどう絡んでそれが更にホルンに受け継がれて——というように、楽器ごとにバラバラに分解して聞こえるといったらいいでしょうか。ロックも同じです。昔はエレキギターが鳴ってるのかシンセサイザーが鳴ってるのかすらよくわからず、やはりサウンド全体が好きだったりしたのですが、今は当然、どの楽器がどう鳴っているのかというのがはっきりと聞き分けられますね。

クラシックの世界で言うと、昔、ピエール・ブーレーズが指揮した一連のものが話題を呼びましたが、一般的にはストラヴィンスキーの『春の祭典』やシェーンベルクの『浄夜』などが好評だった一方で、ベートーヴェンの『交響曲第5番』やドビュッシーの『海』などは不評だったようですが、しかしこれらのどの演奏も一貫しているものを私は感じるのです。それは何れも、作曲家の耳で解釈——というよりはミキシングされた演奏だということです。つまりどれも、スコア(楽譜)を見ながら聴くと、一体作曲家が何を意図してその場所でその楽器のそのフレーズを書いたか、というのがはっきりとわかるのです。『春の祭典』などは、そのリズム構造など、それがはっきり見えるように演奏したからこそ、難解と言われたあの曲がぐっと身近になったわけです。逆に、『海』は、誰しもドビュッシー特有のボワンとした曖昧な音の響きを期待するのに、ブーレーズはその音の構造をはっきりと、クリアーに描き出すので聞き慣れない耳には反発を覚えるのでしょう。しかし、スコア片手に聴き直してみると、全くその音は、ドビュッシーの楽譜通りと言えるのです。

ブーレーズの話を出したついでに指揮者の話をすると、指揮者というのはオーケストラの曲を聴くのに最悪の位置に立っているのだそうです。まず、すぐ周りからはヴァイオリンなどの弦楽器の音がワッと襲ってくる。奥からはトランペットやトロンボーンの音が響き渡ってくる。その隙間からフルートやオーボエなどの木管楽器が聞こえてくる。それらをどういうバランスで聴衆に聴かせるか、これはもう想像の世界でしかないそうです。勿論、経験を積んで大指揮者となれば、その想像がピタッと合うわけですからね。自分が聴いているものと聴かせたいものが違うという中での仕事は、本当に大変なことだと思います。

同じことはロックやジャズのバンドでもあるのです。ロックやジャズでは電気的に拡声しますからね、ステージではモニタースピーカーを置いて、プレイヤーはそこでバンド全体の音や自分の出してる音を確認しながら演奏することになります。が、このモニターから出ている音というのが必ずしも理想的でなかったりするのですね。自分の音がよく聞こえないということもあります。かと言って音を上げてもらうとこれがハウリングを起したりしますし、結局、全体としてどういう音になってるのかわからないまま演奏を余儀なくされることもしばしばですね。時々私も立ち会う関根さんのNippon Soul Jazz Band のステージなどでは、私がステージと客席を行き来して、それぞれどんな音になっているのか確認しながらミキシング・エンジニアの人に調整をお願いすることもあります。

そんなわけで、ミュージシャンが聴いている音とリスナーが聴いている音は違いますし、ミュージシャンが聴かせたい音とリスナーが聴いている音もまた違うのです。本当は、ミュージシャンはその両方の耳を持っていないと、ただ自分の思いばかりが先行した、自己満足の音楽を作ってしまいがちになるのです。いくらミュージシャンがここの所で、この楽器のこのフレーズを聴いてほしいと思っても、リスナーは最初からそんな聴き方はしていないのです。リスナーは音楽が心地よければそれでいいのです。

以前、HIROさんが、いつも聴いて下さってる人が、自分が聴いてるようには聞こえていないということがわかったと驚かれていることがあって、その話を関根さんにしたら、関根さんはそりゃそうだよね、と言った後で、「そう言うタンゴさんの耳も完全にミュージシャンの耳になってるよ。これはね、もう戻らないんですよ。今から普通の人の耳で聞こうと思ってもそうは聞こえないんですよ。」とおっしゃいました。先程書いた「両方の耳」というのはあり得ないようですね。音楽することの難しさは、演奏の技術の問題よりも、本当はそこにあるのかもしれませんね。

そういう意味では——。こうしたことは音楽に止まらないかもしれないですね。例えばこうして文章で表現すること、日常の会話で表現していることも、もしかして、自分の思いばかりが先行して、その思っていることが相手にきちんと伝わっていないかもしれない。相手は全く違うように受け取って、それはそれで納得しているとしたら、それはコミュニケーションではありませんね。

表現するということは、自分の表現したいことが相手に正確に伝わるように表現するこということは、本当に難しいものですね。

それでは、また。


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August 05, 2007

自分の知らない言葉を知る〜シソーラスの話

さて、私のように曲を創ったり、CDの製作に携わったりしていますと、必然的にその曲やCDのタイトルを考える必要に迫られてきます。昔、ビートルズの曲を知った頃からそうだったのですが、名曲というのはどれもタイトルがいいなぁ、と感心してしまうのです。どこからこんなカッコイイタイトル、或いはロマンティックなタイトルを思いつくんだろう、と。あの人たちはイギリス人やアメリカ人で、英語が母国語なんだから当たり前じゃん、とも思うのですが、必ずしもそうではないのです。彼らだってタイトル選びには考えに考えてるはず。ではそんな時どうしているのでしょうか。

例えば、昔フィフス・ディメンションの「アクエリアス(Aquarius)」という曲が流行りましたが——古い! 年代がバレルぞ!——星の名前をタイトルにするなんてカッコイイなぁ、自分もこれにあやかって星をタイトルにして作りたいなぁ、なんて思ったとします。ところが、他にどんな星や星座の名前があるのか知らなければ、どうにもなりませんね。英和辞典は勿論、和英辞典も殆ど役に立ちません。知っている星座の名前を日本語で一つ一つ引いていたのでは3つ4つ引いたところで疲れてしまいます。できれば、星座の名前がズラッと並んでいるような辞典があれば——。

そういう時に、英米人が必ずと言っていいほど使っているのがシソーラス(thesaurus)という辞典です。これは、概念から求める単語や熟語に辿り着ける辞典、その単語や熟語自体を知らなくても辿り着ける、という辞典なのです。有名なのは「ロジェ」のシソーラス(Roget's Thesaurus)です。

例えば、その目次をめくってみると、まず、あらゆる言葉が次のような大きな概念に分けられています。

第1類 抽象的な関係(Abstract relations)
第2類 空間(Space)
第3類 物質(Matter)
第4類 知性:心のはたらき(Intellect: the excercise of the mind)
第5類 意志:意志のはたらき(Volition: the exercise of the will)
第6類 感情・宗教心・道徳(Emotion, religion and morality)

といった具合です。

この中で、例えば第1類の「抽象的な関係」は更に、

1. 存在(Existence)
2. 関係(Relation)
3. 数量(Quantity)
4. 順序・秩序(Order)
5. 数字(Number)
6. 時間(Time)
7. 変化(Change)
8. 因果関係(Causation)

といった具合に分れています。
今探そうとしている星座の名前、これは星というものの名前ですから、第2類の「物質」を見てみると、

1. 物質一般(Matter in general)
2. 無機物(Inorganic matter)
3. 有機物(Organic matter)

と分れています。「無機物」というのは石とか水とか土、空気、そういったものですね。「有機物」には動物とか植物とか含まれます。面白いのは、ここに有機物である人間が発生させるもの——香りとか音楽とか光や色も入ってることですね。で、星座や星は「物質一般」のところにあります。

319 物質(Materiality)
320 非物質(Immateriality)
321 宇宙(Universe)
322 重力(Gravity)
323 光(Lightness)

この頭の数字が概念番号=インデックスということになります。詳しくはまた後で説明します。で、ここでは「宇宙」のところを見てみると、ありましたありました。「宇宙」に冠する英語が、名詞、形容詞、副詞の順に、ズラズラ〜っと並んでいます。で、名詞は更に

universe(宇宙)
world(世界)
heavens(天空)
star(星)
nebula(星雲)
zodiac(十二宮)
planet(惑星)
meteor(流星)
sun(太陽)
moon(月)
satellite(衛星)
astronomy(天文学)
uranometry(天球図)
cosography(宇宙地理学)
earth sciences(地学)

のグループに分れていて、例えば「アクエリアス(Aquarius)」でしたら「十二宮」のグループに入っていますね。そこにピッタリくるものがなければ前後の項目に視野を広げていろんな星の名前を見ていけばいいわけです。

でもこうやって探していくのは面倒、できれば "Aquarius" から直接このページに辿り着けないか、と思うのも当然です。そこでこのシソーラスにはインデックスもついているので便利です。そこで "Aquarius" を引くと、

Aquarius
zodiac 321 n.

とあります。これは、概念番号321の名詞の "zodiac" のグループを見てください、という意味なのです。これで先程のページに辿り着くことができます。

同じように、例えば、「はじまり」というようなタイトルにしたいと考えたとして、とりあえず思いつく英単語が "beginning" だったとして、"beginning" をインデックスで引いてみると、

beginning
prelude 66 n.
beginning 68 n., adj.
new 126 adj.
primal 127 adj.
youth 130 n.
earliness 135 n.
source 156 n.

とあって、そのニュアンスによって概念番号も異なることがわかります。一口に「はじまり」と言っても、"prelude" なら「序曲」という感じ、"youth" は若いことですから人生のはじまり、"source" は何かの源、ということでしょう。一般的にはやっぱり "beginning" の項を調べることになるのでしょうか。

こんな感じで、自分の知らない言葉を知ることができるのがシソーラスです。ご紹介した英語の Roget's のものはペーパーバックでも何種類か出ていて1,000円程度から買えるので持っておくと便利です。和英辞典に出ているよりも多くの言葉の中から自分にピッタリの言葉を見つけられるからです。(但し、この時、"Roget's II" というのは、辞書形式になっているので、できればここでご紹介したような、概念別の形式になっているものの方がいいと思います。)日本語ではこの分野の辞書があまり充実していないのが残念ですね。最近は少しずつですが出てきてはいますが。

それでは、今日はこの辺で。


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August 04, 2007

セカンドライフでのアルバイト「キャンプ」について

さて、今日はセカンドライフ内でのお金の稼ぎ方として有名な「キャンプ」についてお話ししたいと思います。キャンプは、もともとはその地域での交通量、人口を増やすためにお金を払って一定時間その場にいてもらう、いわばサクラとしてその土地のオーナーがお金を払って雇うものです。よくあるのは椅子にじっと座ったり、一定時間その場で踊ったり、というものですね。私はあるビーチで20分ベージング・タオルの上で寝そべっていたら2ドル、というのをやりました。20分DJをやって5ドルというのもあります。効率悪いですが、まぁ、大体そんなもんです。あくまでもてっとり早くお金を手に入れる手段であって、これで稼げるわけはありません。なにしろ2リンデン・ドルというのは1円になるかならないか位のお金ですからね。1時間やって3円稼げるかどうか、って話でしょう。

とは言え、これもうまく使うとなかなかおもしろいですね。じっとしているわけですから、普通なら放っておいたら昨日話した "Away" の状態になり、これではお金を払ってもらえません。そこで「デバッグ・モード」というのにしておくと、アバターを放ったらかしにしておいても "Away" にならず、ずっとお金を稼ぎ続けてくれるのです。ということは、必ずしもアバターに付き合わなくても、自分が寝ている間とか、昼間会社に行っている間にセットしておけば、その間にアバターはじっとその場でキャンプして稼いでくれるというわけです。

そうなのです。セカンドライフでは男に生れることも女に生れることも、空を飛ぶことも、一瞬で好きな場所にテレポートすることも、超セレブとして生きることも、どんな仕事に就くことも自由だ、と前に書きましたがそれだけではないのです。アバターは食べなくても寝なくてもいいのです。みなさんは、食べなくてよかったら、寝なくてよかったら、どんなに24時間有効に使えるか、と思ったことはありませんか。または、今自分がここで何かしている時に、もう一人の自分が別の仕事をやってくれたらいいな、とか。正に、セカンドライフではそういうことが可能になるのです。私自身は同じ場所で何もしないでじっと寝てるなんてバイトはとてもできそうにありませんが、私のアバター君は私が寝ている間もそうやって稼いでくれるのです。

ただ、キャンプについて一つだけ注意しておきたいことがあります。それは時々 "camping online" というのがあることです。そう、"online" という言葉が気になりますよね。これは、実は、ちゃんといないとお金にならないパターンのものなんですね。例えば20分単位の支払なら、20分経った時点で、"Are you a human?(あなたは人間ですか?)" とか "Are you a robot?(あなたはロボットですか?)" といった確認メッセージが表示されるのです。勿論、いくらでもじっとしてられるロボットならお金は払われないわけですし、このメッセージに応えない場合は、自動的に退席させられ、お金はもらえません。このメッセージは不規則に内容が変わるので、人間かと聞かれたら "Yes" を、ロボットからと聞かれたら "No" のボタンをクリックしないといけないのです。このパターンの場合はアバターを放ったらかしにしておくわけにはいきませんね。私はこのパターンの場合は始めた時間をちゃんと確認しておき、他の作業をしながら、20分なら20分経過する2、3分前にはアバターのとこに戻って確実にメッセージに応えられるようにしています。ちゃんと応えるとその時点でお金が支払われます。

さて、このように見てくると、セカンドライフは本当に何から何まで自由な世界だな、と思います。もしこうだったら自分はこんなことができるのに、なんて自分の現実に対する言い訳は通用しないということです。大抵の人がこうだったらいいと考えるようなことは、セカンドライフでは前提条件として保証されてると言ってもいいのです。なのでここでは、その「こうだったら」が全て満たされたところで、「何をやるのか」が問われてくることになります。「何をやりたいのか」というのがないと、セカンドライフもおもしろくはないかもしれません。逆に、何かやりたいことがある人にはこんなに楽しいものはないかもしれません。

最初に書きましたようにキャンプはあくまでも持ち金0円で始まったセカンドライフでの当面のお金を手に入れるための手段に過ぎません。キャンプしてセカンドライフの世界を彷徨いながら、さて、この世界で自分は何をやって生きていくのか、現実の世界で本当は何をやりたいのか、それを考えることが大事だと思います。その時初めてセカンドライフは自分の可能性を開いてくれるのだと思います。

1週間にわたってセカンドライフの話題を続けてきましたが、他に書かなければならないこともいろいろありますので、とりあえずここでこの話題はひとまず終了ということにして、また新たな進展がありましたらご報告させて戴こうと思います。

それでは、また。


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August 03, 2007

セカンドライフの英語

セカンドライフで時々困っている人の相談にのることがあります。また、オフラインでも直接メールで相談を受けることがあります。共通してよく言われるのが、英語がよくわからない、面倒、ということですね。まぁ、世界中の、いろんな背景を持った人と直接コミュニケーションできるわけですから、ここは逆に英語の練習の場だ、くらいに考えて頂いて、どっちにしても、英語が母国語でない人もかなりいるわけですし、実際に喋るんじゃなくて「書く」わかですからね。相手も待ってくれるので、あんまり神経質にならずに下手でも適当でも、チャレンジしていったらいいと思います。

とは言え、やはりゲーム英語、チャット英語といった、普通には接しない表現もあって、私自身戸惑ったこともあります。そこで今回は特によく出てくる言葉を順不同でまとめておこうと思います。


1. よく出てくる英語

■rez(レズ): もともとは "resolve" という他動詞から来た言葉です。"resolve" はもともと「固まっているものを解放する」という意味なのですが、そこから「溶かす」、「変化させる」、「自由にして放つ」というような意味に転じていきます。で、ここでは「セカンドライフの世界に出現させる」という意味になります。そこで、

1. オブジェクト(プリム)を何か作る
2. 持ち物からオブジェクトを出して使う
3. 自分自身がセカンドライフの世界に現れる

といった意味で使われるようです。

■away(アウェイ): 立ったままでも、座っていても、自分のアバターをそのまま放っておいて何か他の作業をしていると自分の名前の後にカッコ書きで "Away" と書かれていることがあります。これは "Away from keyboard"、つまり、キーボードから離れていて、今ゲームには参加していない、ということですね。実際の生活でも、身体はここにあるのに、心はどっか他のところに行ってる時ってありますよね。あれとおんなじです。実生活では、「ねぇ、ちょっと、ちゃんと話聞いてる?」と確認することになりますが、セカンドライフでは名前の後にこうして "Away" と表示されるので、見てわかるのがいいですね。(笑

因みに、意図的に "Away" したい時は、「ジェスチャー」から "afk" を選ぶとよいです。勿論 "away from keyboard" の略で、すぐに自分の名前に上記の "Away" が表示され、首がうなだれた状態になります。(つまり寝ちゃうわけだ!)

■furry, furries(ファーリー): 文字通りには「毛皮を着た人」ということでしょうが、動物型のアバターを着た人のことを言います。結構多いんですよね、動物になりたい人。(笑 何だかスターウォーズやスタートレックに出てくる不気味な宇宙人みたいな人もいたりして。個人的には完全に動物になってるより、ヒト型なのに何故かネコの尻尾を靡かせてる若い女性とかに惹かれてしまいます、ハイ。(笑

■newbie(s)(ニュービー): セカンドライフ初心者のことです。こういう看板があったりしたら近づいていってみましょう。初心者向けの情報があったり、お互い初心者の人が集まってて意見交換できるかも。

■freebie(s)(フリービー): 上と似てますが、これは「無料アイテム」のことです。タダでゲットできます。

■grid(グリッド): もともとは「格子」の意味ですが、ご想像できるようにセカンドライフ内の場所を示す座標の意味となり、更にはセカンドライフ内の全てを表わす言葉となります。リンデン・ラボの公式ブログではセカンドライフの動いている状況を表わすのに "grid status"(グリッドの状況)という言葉を使用しています。更に、先日のような世界的な、全てのサーバで障害が出ているような場合には "worldwide" ならぬ "gridwide" なる言葉が使われています。

■lag(ラーグ): 「遅れ」のことです。よく話題に出てきます。自分が操作してから実際に動いたりするまでの時間差です。サーバが重くなっているとこのラグが発生して、思うように動けなかったりします。

■parcel(パーセル): 学校で習ったのは「小包」という意味ですが、ここでは土地の区画を意味します。「敷地」という日本語がピッタリくるかもしれません。"You are not allowed to enter this parcel.(この敷地内に入る権限がありません。)" など。

■IM: 勿論 "Instant Message(イスタント・メッセージ)" のことです。チャットは側にいる人としか話せませんし、話した内容は周りの人に聞かれてしまいますが、IMは相手がその場所にいなくても送れるのと、その場にいても他の人に聞かれずに会話できます。また、相手がオンラインでない場合は相手が登録しているメールアドレスに転送されるしくみになっています。

■lol: よく英語のチャットの終わりに出てきます。"lots of laugh" で「大笑い」、日本人がメールなどで使う「(笑」とか「w」とかに当りますかね。

■Ty: これもよく出てきますね。"Thank you." です。


2. ジェスチャーの英語

前に、早めにジェスチャーを自分の好みに設定しておいた方がいい、という話を書きましたが、考えてみたら、このジェスチャーがまた英語でよくわからない、という人も多いでしょうね。というわけで、ややこしそうなものだけここに記しておきます。

■/blowkiss: 投げキッスです。
■/bored: 「あ〜あ」という退屈を示す仕草です。
■/embarrassed: 「やだぁ、恥ずかしい!」という感じですね。男がこれをやるとちょっとキモイかも。(実はやってみた。)
■/excuseme: 「失礼」ということで、咳払いをします。
■/extinguish: 「火を消す」ということですが、何のことかと思ったらタバコの火を消してタバコをポケットに戻す仕草です。で、この逆が、
■/smoke: タバコをポケットから出して吸う仕草です。
■/frown: 顔をしかめます。
■/getlost: 「失せろ! あっち行け!」ですね。
■/kmb: これがわからなかった。"Kiss my butt!" = "Kiss my ass!" という侮辱の言葉ですね。相手にお尻を向けてぺんぺん叩く仕草をします。あんまり使いたくないねー、これは。
■/muscle: 「筋肉」ということですから、ご想像つくでしょう。力コブをつくってみせるのですが、イッパツで決めればいいのに3回もくりかえすから却って笑っちゃいます。
■/nya: これは「あっかんべー」ですかね。ヘンな顔をつくっておどけます。その「べー」に当るのが、
■/sticktongue: 文字通り舌を突き出してヘンな顔をします。
■/repulsed: 嫌な顔をして拒絶します。
■/scold: 「叱る」というよりも、指を横に「チッチッ」と振る感じですね。
■/shrug: 肩をすくめて両手のひらを上にむける "I don't know." みたいな例の仕草ですね。
■/count: これが最初わからなかった。何で数える仕草なんか入っているのだろう、と。これはじゃんけんですね。「じゃ〜んけんで」と腕を振る仕草です。となれば、
■/paper: 「紙」=「パー」です。
■/rock: 「石」=「グー」です。
■/scissors: 「はさみ」=「チョキ」です。

さぁ、どうでしょう。気になっていた言葉はありましたでしょうか。私が「ん?」と引っ掛かった言葉を中心に選んでみましたので、もっとこの他にもあるかもしれません。疑問の言葉などありましたらコメントでお寄せ頂ければと思います。

それでは、また。


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August 02, 2007

セカンドライフの企業サイト、そして——

引き続きセカンドライフの話題です。

今日はケチなアルバイトはしないで、徹底的にいろんなところを見て回ることにしました。とりあえず話題になった大手企業のSIMを訪れて、企業がここで何をしようとしているか、おもしろくてやってる個人とどう違うのかを見て、考えておこうと思ってのことです。

で、まずは有名なSONY/BMGの島に行って来ました。よく紹介されいるSIMですが、これがあんまり面白くなかったですね。アーティストの紹介がメインで、それも殆どは外部の、つまりネット上のサイトに飛ぶようになっているもので、結局はただのリンク集みたいな感じ。ムービーやサンプル曲もうまく流れてこないし。そのくせCDは買わないと(99ドルだったかな)聴けないので、うーん、お金出さないと楽しめない場所なのか、と思ってしまいました。

そういう意味では面白かったのはNISSANのSIMですかね。有名になった自動販売機でNissan Sentraを売ってる所です。セントラというのはアメリカ仕様の車で、サニーの流れを汲む、日本では今のブルーバード・シルフィーに当るモデルなんだそうです。ここではこのセントラに一切の生活用品を持ち込んで7日間この車で暮らす、というプロモーションビデオがあって結構おもしろいですよ。ここにいらした方は是非面倒臭がらずにごらんになってみて下さい。

で、自動販売機。自動販売機と言っても、これがタダで手に入るのですね。ただ、タダと言っても、ちょっとしたコツがありますので、ここに書いておきます。自動販売機の脇に説明書きがあって、

Come clean and get the code. (It's nearby.)

とあります。どうも自動販売機の左側にある数字キーでパスワードを入力、続けて右側のキーで商品を選ぶと出てくるらしい。しかしそのパスワードはどうやって知ることができるのか——。"Come clean?"——きれいになって戻ってきて下さい、ということでしょう? この説明書きは先程のプロモーション・ビデオと連動していて、7日間車で過ごした人の絵が出ていました。プロモーション・ビデオで彼は、とにかく匂いには気を付けないとと——特に彼女と一緒にドライブに出掛ける時はね——、駐車場のトイレなどでシャワーを浴びたり身体を洗ったりしていたのだ——と、見回すと駐車場の脇にトイレがあるのですね。で、そこへ行くと、はい、ありましたありました。トイレの落書きがパスワードだったのです! で、そこに書いてあったパスワードを入力、自分の好きな色のキーを押すと、ドカン!と車が落ちてきました。この後は勿論、この車に乗ってドライブしましたよ。(笑 この自動販売機の他には何もない割には結構楽しめましたね、ここは。みんなここで手に入れたセントラを持ち帰ってあちこちで乗り回すんですから、これは結構いいプロモーションになってるんではないでしょうか。

しかし、それにしてもこうした企業のSIMは淋しいですね。日産の所には私を含めて2、3人しかいませんでしたし、ソニーは私一人でしたから。やたらと混んでる個人のSIMとかに較べると、本当に淋しい。

というわけで、今日は企業訪問はこの辺にして「Ueno」にテレポート。ここはなかなか面白かったですね。上野動物園もあったし。で、どこでは動物もののアバターを売ってたりする。自分が動物になれるわけだ! あと、観光案内もあって、日本関係のSIMに飛べる、ネットで言うリンク集みたいなところもあって便利だし。でも、最高に笑ったのは「UNI CIRO」というカジュアル・ウェアの店。ユニクロそっくりのロゴで「ユニシロ」かぁ! 中に入るとユニクロよろしく男女兼用の無難な色とデザインのトレーナーとかあって、これが5ドルと安い! 思わず買おうかと思ったけど、現実世界でユニクロ着てて、セレブな仮想世界でユニシロ着るのもなぁ、とやめました。(笑

それから有名な「Sugamo」のハローワークにも行ってきました。なるほどー、って感じでしたね。セカンドライフの中でどんな仕事が一番求められてるかということなんですけど、クリエイター系としてはやっぱりものを造る仕事、建物とかそういうのをデザインする仕事ですね。そりゃそうですよね。SIMを魅力的に見せるのは結局はそこにある建物とか景観ですけれど、これが一番創るのが大変で、技術が要りますもの。それから、女性は受付とかメイドとか、やっぱり容姿が重視されるものかな。残念ながら音楽関係はなく——現実世界のハローワークでもミュージシャンはないか!——自分にできるものとしては通訳というのがあったけど、これは既に契約済。残念。

あと、前から気になっていた「新潟沖中越地震支援」のSIM、実はこれ新潟県のSIMだったんですが、ここにも行ってきました。写真による状況報告のボードなどがあり、現実世界での義援金の振込先などが書かれてあったりしました。が、やっぱり一番インパクトがあったのはリンデン・ドルの募金箱。この募金箱に自分の持っているリンデン・ドルを入れると、それが募金に反映されて、10万リンデン・ドル(日本円で約4万4千円)単位で日本円にして、実際に寄附されるのだそうです。私が見た時は19万リンデン・ドルになってましたから、この世界でもかなりの人が募金したのではないでしょうか。というわけで、私も10ドルだけ募金してきました。

日本ではセカンドライフというとやたらとお金儲けの話題が出てきますけれども、本来ここは自由に現実ではできないことを創っていく場ですね。で、現実でなかなか実現できないことと言えばその自由とか、愛とか、平和とかあるわけですけれども、そういうことを実現させていくことの方が重要であると感じます。とすれば、この新潟沖中越地震の支援SIMのようなものこそ、人の心が、気持ちが、たとえ微々たるものであっても現実を動かしていくものとして意味のあるものと感じるのです。

今日はいろいろなところを見ながら、ここで何をするのが、セカンドライフをもより楽しい場所にし、そして現実にも影響を与えていくことになるのか、考えさせられた一日でした。

それでは、今日はこの辺で。


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July 31, 2007

セカンドライフに障害!〜技術的なこと

昨日から障害が出てますね、セカンドライフ。まぁ、850万近い人が登録してて、常に3万人前後の人がアクセスしてるわけですから、サーバがダウンしても当然と言えば当然でしょうが。

リンデン・ラボの公式ブログによると、アメリカの時間(=セカンドライフ時間)で28日の午後4:56と言いますから日本では日曜の朝8:56頃からセカンドライフをアプリケーションを立ち上げ、ログインしようとすると「Error」の表示が現れる、という問題が発生し——これは私も経験した——、これは数時間で解決し、その後何度かシステムが重たくなる事象が繰り返され、とうとう29日の午後8:26、日本では昨日のお昼過ぎに「検索、地図、テレポート、及び資産管理の機能がやたらと遅いか、寧ろ全く使用できない、自分の持っているリンデン・ドルの残高は "Loading" と表示される」——つまりは全く何もできない——という事態が発生、その後、懸命の努力が続けられているようですが、30日の午後6:55、日本時間今朝の10:55頃に「今晩も作業は続いています。今晩、或いは明日の朝、進展があったらご報告します」と書き込みされたのが最後となっています。試しに先程接続してみたら——こんなことする人がいるからまたまた重くなるのだ! メッ!——、地図機能、テレポート機能は回復し、一旦は移動ができました。更に、リンデン・ドルの残高については、昨晩このブログを書きながら稼いだはずの15ドルは全く反映されなかった模様で、その前の金額が表示されていました。(おーい! どこ行ったんだぁ。俺の金と時間!)が、その後は全くレスポンスがなくなりましたので、やっぱり復旧を待つしかないようですね。これだけ長い時間に渡ってシステムがダウンしたままというのはクレームものですが、彼らも、恐らくは寝るのも惜しんで最善の努力をしてるでしょうから。このブログでも進展がありましたら報告させて頂きたいと思います。

さて、実は私が参加し始めた28日の夕方、出会った人たちがテレポートできない、できない、と嘆いていたのですが、きっとこれも何か関係あるのだろうと思っています。出会う人出会う人、外人の名前はついていても、実は日本語喋る人たちでしたからね。しかもみんなセカンドライフに来たばかりの初心者の人が多くて。つまり、1日経験しただけでも、そして日本人だけでもそれだけの新しい参加者の人たちがいるわけでしょう。これは、かなり急激なスピードで参加者が増えていること、そしてシステムがそれに追い付いていないということではないでしょうか。6月に発売された公式ガイドでは450万人が参加、と書いてあり、7月に出た本では700万人と書いてあり、そして今の今は850万人ですもの! それはパンクしますよ。しかも、セカンドライフでは、殆どの処理がサーバ側で行なわれていますからね。私一人が歩いたり喋ったりするの、全部サーバでやってて、それを、そこにいる人たち一人一人について全部対応しているわけでしょう? これはサーバに負担かかり過ぎますよ。

ここで技術的なことを少し。最初に接続した時から時々停まってしまうので閉口していたのですが、これには原因が3つ考えられますね。

1. 自分が使っているパソコンのスペック(能力)
2. 自分が使っているプロバイダの回線状況
3. セカンドライフのサーバの状況

今回はもう、3.が理由だとはっきりしましたけれども、普通は疑ってみるのは1.の自分のパソコンのスペックですよね。公式サイトを見ると、これは結構スペックの高いパソコンが必要になりそうですね。特に問題がありそうなのがグラフィックボード。但し、Macintoshユーザの方について言えば、今売っているIntel Macであればほぼスペックは満たしていると考えてよさそうで、敢えてグラフィックボードを購入する必要もなさそうですね。私のMac BookにはIntelのボードが入っているようですが、公式サイトで推奨されているボードの中にはそれは入っておらず、寧ろ「Intelの表示のあるボードはセカンドライフに対応していません」というような表記まであるので、ダメモトで始めたのですが。なので、Intel Macユーザの方なら取りあえず安心して始められるのではないかと思います。G4とか、あとWindowsの方はよく行くお店とかで相談した方がいいかもしれませんね。

あと、当然、2.の回線の問題はあるでしょうね。やっぱり回線が混みやすい時間帯は、これは普通のWEBを見てても遅くなりますからね。"camping" という、その場でじっと椅子に座ったり(いわゆるサクラですね)、ペンキ塗ったりしてお金がもらえる仕事があるのですが、ADSLモデムを見ていると、こういうじっとしているだけの時でもLANのアクティビティを示すランプが激しく点滅しているのです。セカンドライフではデータの送受信量がかなりのものになるようです。(そうそう、なので、もしADSLモデムなどが何も反応していないようでしたら、それはもう、サーバと切れてしまってると考えてしまった方がいいかもしれません。こういう時私は結局再起動しています。)

まぁ、何れにしても重たいです。フラストレーションなく遊ぶには、やっぱりハイスペックのパソコンに光回線、ということになるんでしょうかね。

さて、障害とはっきりわかりましたので、こういう流れになってしまいましたけれども、本来お伝えしたかったのは、先程話題にしました「テレポート」の仕方です。これができないと全くもって動けないですからね。

一番簡単なのは、右下の方にある「地図」ボタンを押すと今自分がいる所の地図が画面一杯に表示されますが、その右の方に「私の友だち」「私のランドマーク」と右側に検索ボタンのついたブランクのボックスがあると思います。このボックスにガイドブックなどで見つけた自分の行きたい場所を入力、検索ボタンを押します。するとその下に検索結果が現れ、その座標が画面中央に表示されます。ここで「テレポート」ボタンをクリックするとその場所に移動できます。

まぁ、最初はそこから始まるんですが、毎回これをやるのは面倒ですね。そこでちょうどネットで「お気に入り」に登録する要領で「ランドマーク」に登録しておくと、先程の「私のランドマーク」にリストが追加され、そこから選ぶだけですぐにテレポートできるようになります。「ランドマーク」を登録するのはメニューバーの「世界」メニューをクリックして現れるリストから「ここにランドマークを作成」を選択すればOKです。

それでもなかなかうまくテレポートできない、という人は——。「フレンド」=友だちにテレポートをお願いすることもできます。友だち同士になると、自分のいる場所に友だちをテレポートさせて連れてくることができるのです! (これが現実にできたらいいよね!)ということもあって、早くいろんな人に話しかけて気に入った人をフレンドにすることが結構重要なことになってきますね。

それでは、また。
まずは復旧を待ちましょうか!


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July 30, 2007

セカンドライフ〜マニュアルに書いてないことなど

さて、セカンドライフも3日目となりました。うろうろするうちにだんだんいろんなことがわかるようになってきたように思います。と言ってもまだたった3日なので、当然知らないことの方が多いんでしょうが。

しかし、初めてとは言え、なかなか本屋で売っているガイドブックなどに書いてないことも多くて、とにかく初日はとまどい続けました。インプレスから出ている「公式ガイド」にも、何故だかプリムの作り方やスクリプトの書き方と言ったマニアックな部分で詳しいのに、ショートカットキーやアイコンの一覧みたいな、基本的なところが書いてないのが残念ですね。どうしたらいいか、どう動いたらいいかわからずに、結局はつまんない、ということになってしまう。勿体ないことですね。

特に、私の周りには、自分を含めてMacintoshユーザーが多いのですが、殆どの解説本はWindows標準で書かれてますよね。だからMacユーザーにはますますわからない。

というわけで、今日はセカンドライフを本格的に楽しみ始める前に、つまづきやすい導入の部分について、しかも特にMacintoshの操作法を中心に、自分の経験からご紹介していきたいと思います。実際に始める前にお読み頂くと、少しでもお役に立てるのではないかと思います。


1. 名前を決める

まず最初は、勿論ユーザー登録をするわけです。で、この時セカンドライフでの名前を決めるわけですが、実に残念なことに、いろんなことが自由なセカンドライフにあって、名前だけは自由でないのですね。新しく生まれ変わるわけですから、自分の好きな名前をつけたいものなんですが。

まず、「姓(Last name)」は予め決められたリストの中から選ぶことになります。これがなかなか難しいですね。やっぱりセカンドライフはセレブとして生きる世界ですからね、普通っぽい名前があんまりない。(笑 私は全く想像力のない人間で、あちらに行ってもやっぱり男でいたくて、日本人でいたい人なんですけどね。普通っぽい日本人の名前ってNakamuraさんくらいなもので……。その一方で、Offcourseとか、更にはGacktというのがあったのには笑ってしまいました。やっぱり、セレブですから、いろんな国の著名人や芸能人の名前からとってるんですかね。私もよっぽどGacktにして、色白のイケメンスタイルでデビューしようかと思いましたけど……やっぱり現実とあまりかけ離れ過ぎるのもねぇ。(笑

名前は一度登録すると変更できないのです。ですからここは慎重に時間をかけていきたいところです。一生その名前で生きるわけですからね。「名(First Name)」の方は自由につけられますが、これも姓との組み合わせが既に存在していたら、つまりその名前の人が既にいたら、別の名前をつけなければなりません。

繰り返しになりますが、早く登録して遊びたい、と気持ちが逸るところですが、ここは慎重に時間をかけて名前を決めるようにしたいものです。


2. オリエンテーション・アイランド(1)Communicate Areaで

登録が終るとオリエンテーション・アイランドというところに自分のアバターがいます。ここは4つのエリアに分れています。

Move
Communicate
Appearance
Search

まず、「Move」エリアで動き方の練習をします。次に「Communicate」エリアで会話の練習をします。ここでは自分から話しかけたり、相手の質問に答えたりするわけですが、3つの石像がいて、この石像が練習台になるわけです。最初の石像からは名前を聞かれます。それに答えると書物の名前を教えられます。2番目の石像のところでその書物の名前を聞かれます。で、3番目の石像のところにいくと、間もなく火山が噴火する、もしあなたが自分たちが待っている人物なら神の怒りを鎮めてこの島を救うことができるのだが……、というようなことを言われます。

そこで、正に自分こそその人物である、ということを示すのに、「hula=フラダンス」のジェスチャーをすることになります。ジェスチャーは「ジェスチャー」ボタンをクリックすれば代表的なジェスチャーのリストがズラズラっと出てくるのですが、何と、私のリストの中には「hula」のジェスチャーが入っていないではないですか! どうすりゃええのか!


もし、皆さんのリストの中に「hula」がなかったら、ここで慌てずに、一番右下にある「持ち物」ボタンをクリックします。すると「Inventry」というフォルダがたくさん並んだリストが出てきます。この下の方に「Library」というのがあり、これを開くとその中に「Gestures」があり、それは更に「Common Gestures」、「Male Gestures」「Female Gestures」、「Other Gestures」といったフォルダがあり……この中に「hula」が入っています。これを使えば神の怒りを鎮めることができ、Communicateエリアを通過することができます。


3. オリエンテーション・アイランド(2)Appearance

Appearanceエリアでは、先程の持ち物の中から自分の身につけたり、欲しいものをクリックして手に入れたり、そして何と行ってもセカンドライフ最大の楽しみの一つ、自分の容姿を変える方法を練習します。

ところで、自分の容姿を変えるには自分のアバターを右クリックすればいいのですが、果たして、ワン・ボタン・マウスのMacユーザーはどうすればいいのでしょうか? 一般的には、Windowsの右クリックの操作をMacでしたい時は「control」+クリック、というのが常識になっていますが、これでは、何にも起らないのです。これには私もさすがに焦ってしまいました。えー、容姿を変えられないんじゃ、一生この姿形で生きなきゃならんのか、と。初っぱなから破れかぶれになった私は、試しに「command」+クリックしてみました。と、出てきたではないですか、パイメニューと呼ばれる、円グラフ型のメニューが。で、「容姿」というところをクリックすると、なかなか楽しそうな、自分の姿鷹地を変えられるオプションが出てきました。が、それはあとでゆっくりすることにしましょう。ここはそのままメニューを閉じてクリアーということになります。

この右クリックはセカンドライフの中では多用しますので、Macユーザーの方、是非覚えておいて下さい。「command」+クリックです。


4. ヘルプ・アイランドの過ごし方

オリエンテーション・アイランドは一度出ると二度と戻って来られないので、納得いかない時はじっくり時間をかけていろいろ試してみるといいと思います。私も、何度も同じところを行ったり来たりしました。で、Move、Communicate、Appearance、Searchのエリアを一通りクリアーしたら、SearchとCommunicateの間にある「Help Island」の看板をクリックします。するとヘルプアイランドにテレポートします。

ヘルプ・アイランドははっきり言って見るべきものはあまりありません。無料の服や家なども売っていますが、大したものはありません。寧ろここではあちこちにあるいろんなサインをクリックして、ヘルプ・ノートを集めることがメインになります。ここも二度と戻ってこれないので、とにかくいろんな物に触れてノートを集めて行きます。それぞれ文章が表示されますが、読むのは後で、わからなくなった時でいいので、タイトルだけ見て、どんなことが書いてあるかだけ見てどんどん「維持(Keep)」していきます。

ところで、ヘルプ・アイランドは広くて、殆ど人もいないので、ここでやっておくといいことがあります。一つは容姿を変えること。これは時間が掛かりますからねぇ。実際のSIMに入っていくと、どこも人が多いですからね、立ち止まって自分の顔や体型を変えるのは勇気も要りますし、他人の邪魔になりますね。なので、人の見ていない、のんびりした空間のここでやっておくとよいのです。

ここで先程のLibraryからいろんな服に替えてみたり、髪型を変えてみたりと、時間をかけることになるのですが、忘れずにやっておきたいのが、ゼスチャーの登録です。ゼスチャーがあると、会話が断然盛り上がります。私が最初の日に会った人などは、ある会話の中で嬉しさのあまりに踊り出してしまいまして、私は大変驚いたのですが、こうした踊りもゼスチャーの中に入っています。そして、ゼスチャーはキーボードのファンクションキーに割り当てることができるのです。だから、タイミングよくファンクションキーをポンと叩くだけで、会話に動きが加わり、リアルさが増し、魅力的になるのですね。ゼスチャーの登録とファンクションキーへの割り当ては、Windows、Macintosh共に「control」+「G」でできます。是非お試しあれ。

それでは、長くなりましたので、今日はこの辺で。
明日もこの続きを書く予定です。


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July 29, 2007

セカンドライフの住人になりました

私の周りでは、Voie lacteeさんが書いていたセカンドライフですが、私もようやく登録、住民になることができました。恐らくはVoie lacteeさんと同じ場でその話を聞いていたとは思うのですが、その夜ネットでざっと調べた後は、あまりの忙しさにそのままになっていたのでした。

で、昨日、やっと登録して、セカンドライフの世界をうろつき始めました。そう、まだうろつき始めたばかりで何にもできていないというのが現状です。しかも一文無しで! ん? これでは現実の自分と同じではないか! そうなのです。セカンドライフは「もう一つの人生」というだけあって、現実の世界の引き写しと言えます。お金を払わないベーシック会員で始めると、一文無しの、TシャツとGパンというスタイルで始まります。ここでどうやってお金を稼いでセレブに成り上がっていくか——これは、もう、アメリカン・ドリームそのものですね。しかも、その一方で最初にお金を払うプレミアム会員だと最初からお金がある状態で、しかも土地が持てる状態で始められるのです。スタートからして持てる者、持たざる者がいるというのも「リアル」ですね。

セカンドライフのおもしろいところはこの辺りにあるのかもしれません。仮想空間なので、何でもできるはずです。映画「マトリックス」のネオよろしく空を飛ぶことだってできますし、そんな面倒なことしなくても、行きたい場所を指定すればテレポートすることもできます。更には、友だちをテレポートさせて今自分がいるところに呼ぶこともできます。それから、男として生きるか、女として生きるかも自由ですし、何人として生きるかも自由です。勿論どの地域に住むかも自由です。そしてどんな職業に就くこともこれまた自由ですね。

ただ、やはり同じ人間のやってることですからね。やっぱり現実の自分が反映されてしまうようですね。例えば、仕事にしても、やっぱり現実の自分が一番得意とするところで勝負するのがいいようです。そう言えば、お金を稼ぐのに、"camping" という、いわば単純作業のアルバイトみたいのもあるんですが、そういうものはやはり人気が高いので、なかなかありつけないですね。これも現実的。それから、結局ここも一つの社会ですから、人間関係をつくっていく能力みたいなものは必要ですね。基本的には英語の世界ですが、日本語喋る人もいるし、周りにいるそういういろんな人たちの誰に話しかけてどう人脈を作っていくか、これも自分の日頃の動き方がそのまま表れてしまいますね。

そう見てくると、セカンドライフというのは、性別とか人種とか国籍とか、或いは国の境、時間空間の壁といった、これまで私たちの生活の自由を奪ってきたものが撤廃されたところで、では、あなたはどのような能力、素質が発揮できるのですか、というところが問われているように思います。そういった壁がないところでなら、現実世界ではできない何ができるのか。それは、実は現実世界とパラレルなところで動いていると言ってもいいのではないでしょうか。

だからこそ企業がどんどん参入してきているのでしょう。明日発売になる「東洋経済」でも特集されるほどビジネスの世界で注目されてきています。現実にはすぐにできないことをセカンドライフで実現させてみる。そしてそこでうまくいけば、現実のマーケットに反映させることができる。これはセカンドライフの世界で稼いでいる人が現実にも稼いでいるということと関係してきます。と、すれば、です。

私たちはどうしてもお金を稼ぐとか、経済的な側面ばかりに目が行ってしまいますが、それだけでなく、どんな社会が作れるか、の実験もここでできるということではないでしょうか。例えば平和。セカンドライフで理想的な社会を築くことができれば、私たちは現実にも、平和な社会を築くことができる、そういうきっかけになるのではないかと思います。

実際、日本人が運営しているエリアを訪れてみると、あちこちに「新潟沖中越地震支援」と書かれたブルーの横断幕があります。"etter World Islandというところでは「今バグダッド市街で何が起っているか、その現実を見てください」という看板もあったりします。セカンドライフの世界に現実の問題が持ち込まれ、この世界を通じて現実の世界を何とかしようとしている人たちがいるのです。

さて、そういうところで私は何をするのか。いろいろとこれまで抱いてきたアイデアがあるので、それを実現したいところですが、まだまだうろつくので精一杯。昨日はやっと友だちを2人作ったところで終ってしまいました。今はとあるところで安いバイトをしてるところです。(笑

また、何か展開がありましたらご報告させて戴きます。
そうそう。最後に、私のセカンドライフでの名前はHiroshi Kumakiです。このブログをご覧の方でセカンドライフやってらっしゃる方いらしたら、是非IM(インスタントメッセージ)などでお声をかけて下さい。

それでは、また。


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July 23, 2007

誕生日

さて、今月のネット音楽雑誌・月刊「DAICHI-大地-」で私は"Happy Happy Birthday"という曲を発表していますけれども、これは解説にも書いていますように、私の親しい友人の誕生日のために作ったものなのです。そして今日、7月23日がその人の誕生日なのですね。

こうして誕生日を祝いたい人というのは、勿論、自分にとって大事な人であるわけですが、よくよく考えてみるとこれは不思議なことですよね。何と言っても、歴史的にも地理的にも全く異なった人生を歩んで来た人と出会って、その出会いが、自分にとって大事と思えるほどの意味を持っているわけでしょう。これは殆ど奇跡ですね。人と人とが出会うということは、本当に、並大抵のことではないと感じます。人は、瞬間瞬間、いろんな決断や判断を重ねながら自分の人生を創っていってますから、そのどこかの決断や判断が違っていれば、その人と出会うこともなかったということでしょう。今、こうして会えているということ、それはお互いの決断や判断の積み重ねで実現していることなのですね。

そして——もう一つ——。そういう、大事と思える人に会っている自分が、今、ここにいるということ。それも考えてみたら不思議なことではないですか。

実は、今月は私自身の誕生月でもあって、その日私はある集まりに出ていたのですが、それが終ってから携帯に留守番電話が入っているのに気づき、再生してみると九州の母からでした。たった一言。

「今日はお赤飯を炊いて頂きました。」

想わず、柄にもなく泣いてしまいました。事あるごとに対立したりしては、「生まなきゃよかった」「生れなきゃよかった」「あんたなんかいなかったと思うよ」「僕も親なんかいないから」なんてひどい言葉を浴びせ合ったりすることもあるのですが、親にとって、特に自分のお腹を痛めた母親にとっては、忘れようとも忘れられない、そしていつも元気で幸せであれと願わずにはいられないものなのでしょう。自分が今ここにいるということ、そしていろんな素晴らしい人たちに出会っているということ、それを可能にしたのはこの母親であり、父親であると思うと、もうそれだけでありがたさに胸がいっぱいになります。

今、自分がここにいるということ、そして大事と思える人に出会えたということ、誕生日というのは、その奇跡を、人生の不思議を、今一度考える機会なのかもしれません。

というわけで、今日誕生日を迎えた人、これから迎える人、そして、もう過ぎてしまった人、全ての人に——。

お誕生日おめでとう。

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June 17, 2007

坂井泉水さんのこと

久し振りに衝動買いをした。

仕事の合間に時間が空いたのでCDショップに行ったのだ。見てみたいクラシックやワールドミュージックのCDがあったからだ。が、ここでそのままクラシックやワールドミュージックのCDを買ってきてそれがよかった、というのであればいつものことで何もおもしろいことはない。が、ここで衝動買いしたというのは、CDショップを出ようとしたその時、出口の近くにあった追悼特集のコーナーでのこと。買ったのはそう、『ZARD/Golden Best』、一時はCDショップから消えたというものだ。

日本の音楽界に批判的な私が歌謡曲のCDを買うというのは、一体何年振りのことだろう。恐らく、宇多田ヒカルのファースト『First Love』以来くらいのものではないかと思う。しかし、正直言って、ZARDのことはずっと気になってはいて、ベスト盤くらいは持っていたいと思ってはいたのだ。が、ずっと後回しになっていた。世の中にはまだ聴いたことのない、聴かなければいけない音楽が多過ぎる。

それが、あの日、たまたまニュースを見ていて、ZARDの坂井泉水さんの死去を知らされた。これには何故か大きな衝撃を受けた。え、何、ウソ! 別に特にファンというわけでもなく、ZARDのことを殆ど何も知らないにも拘らず、言いようのないショックだった。

何故、こんなにショックなのだろう? 以来、不思議と、殆どちゃんとまともに聴いたことのないはずのZARDの音楽が頭の中で鳴っている。ふと手にした週刊誌に坂井さんの死についての記事があると読んでいたりする。一体、僕の中で何が起っているのか。こうなるともう、CDを買って聴きまくるしかないのだ。だから、本当は衝動買いではない。僕の心の奥底でずっと気になっていたものが、CDショップの特設コーナーで引き出されただけだ。今はクラシックでもワールドミュージックでもない、この人の音楽を聴きたい——。

『ZARD/Golden Best』2枚組全27曲。27曲もあるのに、その殆どを私のようなテレビも殆ど見ない、流行に疎い人間が聴いたことがある、というのに改めて驚いた。殆どがドラマやアニメやCMのタイアップ曲。CMはともかく、ドラマやアニメを殆ど見ない私が知っているということは、いかにそれがヒットして街中で流れていたかということを物語っている。先程書いたように、ちゃんと聴いたことがないのに、私の頭の中で鳴ってるくらいのインパクトを持っているのだ。

正直、ZARDというのはロックバンドというよりは歌謡曲だと思っていた。CDのジャケットはいつも坂井さんの顔の大写しだし、声もロックボーカルというよりは歌謡曲風だ。でもそれは主に誰にでもわかりやすい日本語の歌詞だからかもしれない。しかし、その日本語の歌詞とメロディとが強力なインパクトを持って胸に飛び込んで来るのだ。これってただの歌謡曲だよね、と思いたくとも、その歌詞に、そうなんだよね、人って、恋ってそうなんだよね、よくこんな歌詞書けるなぁ、と共感している自分がいるのにも気づくのだった。何のことはない、要するに好きなのだ。

坂井泉水さん、行年40歳だったという。何と僕と殆ど変わらない、僕の妹のような年齢(とし)の人だったんだ。解説の文章を読んでいて気づいたのはやはり僕と同じような音楽や映画を経験していて、同じようなものをいいと感じている人だったんだ、ということだ。詞は全部彼女が書いているという。一見、わかりやすそうなその詞には、彼女が生きてきて経験してきた人生の様々が織り込まれていると感じた。正に、彼女の生きる真実がそこにあるからこそ、ただの、作られたよくある歌謡曲の歌とは違うリアリティがZARDの歌にはあるのだ。その意味では、やはりZARDは歌謡曲ではなく、ロックなのだろう。

が、それが歌謡曲的にこれだけ広く人に受け入れられるというのは、どんなに悲しい、辛いことも、あのポップなサウンドで、最後にはハッピーに癒してくれるということにあるからだろう。そう、このベスト盤のCDにしても、27曲聴き終わった後に残るのは幸せな感じ、そして、自分自身の純粋な気持ちなのである。そして、その純粋な気持ちを取り戻せた時こそ、今がどうであろうと、人は先に進むことができる。僕が聴きたいのはそういう音楽なのである。

坂井さんの書く詞には、歌う歌には、そんな、人をハッピーにして、純粋な気持ちにさせて、今いるところから一歩前へ踏み出させてくれる、そんな力がある。人を元気にしてくれる素晴らしい歌の数々だと思う。そんな歌をもっともっと聴きたいと思う。

それだけに、本当に残念だ。人をこれだけ元気にしてくれた坂井さん自身が元気を取り戻さずに、その命を召されてしまったということは。人を幸せにする純粋な魂はいつも早く召されてしまう。何ということだろう。今は僕の頭の中では「君がいない」が鳴っている。CDを聴きながら、坂井泉水さんのご冥福を祈りたいと思う。


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June 12, 2007

6月12日——新しい時代へのはじまりの時

ふとカレンダーを見ると6月12日だった。6月12日——私にとっては忘れられない日付だ。1993年6月13日土曜日、今から14年前の今日、東京・両国の国技館で、「S.T.3 森林は愛のフィールド」と名付けられた斎藤忠光(現・いだきしん)さんの国際的コンサートが行なわれたのだ。

コンサートは「次世代の子供たちが生きられる地球、社会環境を創る」という趣旨に賛同したボランティアの一般の市民によって組織される実行委員会によって組織され、出演者の斎藤さんもボランティア出演、コンサートの開催にかかる費用はこのボランティアが国内の企業や個人を一軒一軒回って趣旨を伝え、ご賛同頂いた方々からの協賛金だけでまかなわれた。一方、この趣旨は英語に翻訳されて世界中の国や企業の指導者、地球環境の活動家、芸術家、科学者など、私たちが名前の知ることのできるあらゆる方々に送り、多くの支援と共感のメッセージを頂いた。

前の年から斎藤さんの「いだき講座」を受講し、終ったばかりの私も当然このボランティアに参加したわけだが、6月12日当日、コンサートが始まった時も、そして終った時も、私はある感慨と未来への希望を感じていた。ボランティアの実行委員会というのは、その間、本当に何度かしか開かれなかった。出演者の斎藤さんも、実行委員長の高麗恵子さんも、そして皆それぞれに仕事を持っているであろうボランティアの一人一人も、メチャクチャに忙しいはずだ。そう何度も全員が揃うわけがない。だから実行委員会では、それぞれが何をするのか、何が必要なのかの確認だけが行なわれ、あとは完全にそれぞれ独自で、自分ができること、自分が担当していることを行なうのみなのだ。必要な連絡は電話とFAXで行なう。私もこの時初めて、パソコンのデータをやりとりする必要性から電子メールを導入した。まだインターネットなど普及していない、パソコン通信と呼ばれていた頃の話である。

そうやって、皆バラバラで動いてきたものが、6月12日当日、運営に必要な費用はちゃんと集まり、会場はちゃんと設営されてお客さんを迎える準備ができており、世界中から寄せられたメッセージがその会場を飾っていた。斎藤さんから共演するミュージシャンも、アメリカからヴァイオリニストのダロール・アンガーさんが、青森からねぷた太鼓の皆さんが来ていた。そして、このコンサートを実現するためにそれぞれの活動をしてきた仲間のボランティアたちとの再会——。

そして、本番。終演。コンサートが終ると会場の撤収。そしてお客さんもボランティアのみんなもそれぞれの生活へと戻っていった。ヴァイオリンのアンガーさんもアメリカへと帰っていった。

何てカッコイイんだろう、というのがその時正直に思ったことである。これこそ21世紀型の仕事なのではないか。プロジェクトの方向だけ確認したら、あとは一人一人、自分の得意な分野、好きなところでこのプロジェクトに関わる。メールやFAXを使って、互いの生活のリズムに影響を与えず、しかも自分のペースで連絡を取り合い、確実にプロジェクトを前に進めていく。皆がそれぞれの生活の中で「その日」に向かい、「その日」に集まり、そしてまたそれぞれの生活へと戻っていく——。

私たちは、一人一人がそれぞれにしかできない能力や素質を持っている。一人一人がその能力や素質をこの社会の中で活かして生きることができれば、それが社会全体にとって大きな仕事となる、利益となるのだ。そしてそのように生きられるということが自由に生きるということであり、そのように生きられる社会こそ平和な社会なのである。そんなのは理想であって現実ではないと言う人がいるかもしれない。しかし、私はあの時、そしてそれ以降の斎藤忠光(いだきしん)さんのコンサートを通じて、そのような生き方が実現できることをこの目で見てきたのである。

そのいだきしんさんは5月末からシリア、ブルガリア、ルーマニアと連続してコンサートをされている。14日からは東西文化の壁を取り去ったアレクサンドロス大王が生まれたマケドニアの地で、4日連続でコンサートが行なわれる。あれから14年。社会にも世界でも、大変な問題が次々に噴出しているように見えるけれども、それは、この新しい生き方を始めなさい、という私たちへの警鐘なのかもしれない。そう、この新しい生き方を実現するのは、私たち一人一人なのだ。

14年前のいだきしんさんや高麗恵子さんとの出会い、ボランティアのみんなとの出会いを思い出しながら、そして、今はマケドニアにいるであろうお二人に思いを馳せながら、私もこの方向に向かって進み続けるのだ。

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May 28, 2007

新しい文化、文明を生んだかの地より

キリスト教の、カトリックの五本山というのをご存知だろうか。高校の世界史の時間に出てきたのを覚えている人もいるかもしれない。ローマ、コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)、イェルサレム、アレクサンドリア、そしてアンティオキアである。最初の3つはいいだろう。アレクサンドリアはエジプト、最後のアンティオキアは? 現在トルコ領で、かつてセレウコス朝と呼ばれた時のシリアの首都である。こうしてキリスト教の拠点にエジプトとシリア(またはトルコ)の地名があることを不思議に思う方も多いかもしれない。が、これこそローマ時代の世界観なのであった。

かつて、ギリシャの北、マケドニアから出たアレクサンドロスはトラキア、ギリシャを平定し、更にはペルシャを下し、フェニキアを陥とし、エジプトをも平定、その後中央アジアからインドにまで進出しようとした。その結果、アレクサンドロスのマケドニア、またはギリシャ的世界は一挙にエジプトからインダス川まで広がったのである。

が、そのアレクサンドロスも志半ばで亡くなってしまう。当然、後継者問題が出てくる。アレクサンドロスの大帝国はその側近の3人の将軍が分割統治することとなった。アンティゴノスがアナトリア(トルコのある半島)を中心としたマケドニアを、プトレマイオスがエジプトを、そしてセレウコスがバビロニアを治めることとなったのである。そしてエジプトの首都がアレクサンドリアであり、バビロニア、またはシリアの首都がアンティオキアであった。カトリックの五本山は、そのアレクサンドロス王国を最終的に受け継いだローマ帝国にとって、いずれも重要な都市であったのである。

さて、このうちセレウコス朝シリアはギリシャ風、そして後にはローマ風の都市国家がたくさん栄えた国であった。何と言ってもアンティオキアはシルクロードの始発点とも終着点とも言うべきターミナルであった。その地中海沿いの南には地中海貿易を仕切っていたフェニキアの諸都市が控えていた。どのような意味でも、シリアは文化、文明の十字路であったのである。であればこそ——。

アレクサンドロスの後継者たちは、結局は互いに勢力争いをしたり、或いは領土拡大を求めて近隣諸国に進出しようとして、結局は疲弊してしまい、滅んでいってしまった。時代は新興国家ローマへと移りつつあった。こうして古い王朝は滅んでいく。が、しかし。アレクサンドロス大王が蒔いた種は、確実に普通の、民衆に浸透していく。自由な文化、文明の交流によって東西が融合した新しい文化、ヘレニズムが生まれたのである。そして、アンティオキアが後にササーン朝ペルシャによって滅ぼされ、その中心がやがてダマスコスに移ろうと、シリアは常にこうした文化文明の十字路であり続けたのである。

その文化文化の十字路、シリアのダマスカスで、今晩、いだきしんさんと高麗恵子さんによる「高句麗伝説」コンサートが行なわれます。現地時間の午後8時と言いますから日本では深夜の2時頃からでしょうか。激動の時代の中で新しい文明、文化を生み出したこの地から、また新しい時代を創る何かが生まれる、私は今、そんな期待と確信に満ちています。東京で、新しい時代のエネルギーを感じられるか、楽しみです。


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May 17, 2007

残念な日本のニュース

昨晩、寝る前にとてもショッキングな映像を見ました。例によってBBCの午後1時のニュースを見ていたのですが、そこで実に久しぶりに日本のニュースが流れたのです。そのニュースというのが……。

この1時のニュースというのはBBCの国内向けのニュース、普通のイギリス人がテレビで見ているニュースです。海外の放送局のニュースを見る時、海外向けの国際版を見るよりも、こうした国内ニュースの方がその国の事情や、人が何に関心を持っているかなどがよくわかるのでおもしろいのです。その国内ニュースで日本の記事が報道されるということは、まずないと言っていいでしょう。実際、昨日も後でよく考えてみると海外のニュースが流れたのは、パレスチナ情勢とフランスの新しい大統領就任の記事、そしてこの日本の記事の3本だけでした。その、パレスチナ情勢やフランス大統領に並んで、いや、時間としてはこれらよりも長く放送された日本のニュースとは……。

千葉県の市川市で英会話学校講師のリンゼイ・アン・ホーカーさんが殺害されたという事件についてのものでした。リンゼイさんのご両親がBBCのインタビューに応じているものだったのです。BBCの記者がご両親に対して、「これまでこの件についてずっと沈黙を守っておられたのに、7週間、ほぼ2ヶ月たってからインタビューに応じたのはどうしてですか?」の質問に、父親は、「娘を殺した犯人は、どうあっても正義の裁きに付されなければならない。その為には、多くの人にこのことを知ってもらい、犯人逮捕に協力してほしい」と、日本語で書かれた手配書をカメラに向けて強く訴えるのです。そして、「娘は教師となるために日本に行ったのであって、殺されるために行ったのではない」と言い、全身を震わせて泣き崩れるのでした。

私の胸は痛まずにはいられませんでした。あの両親の嘆きと訴えをイギリス中の人が見たでしょう、或いは国際版のニュースでも流れたのかもしれません。何れにしても、珍しく日本の話題が流れたと思ったら、このような痛ましいニュースで、同じ日本人として、残念でならないのです。

最近は、海外での日本の話題と言えば、こうした残念なものが多いように感じられます。何故かアメリカで第二次大戦中の日本の中国に対する行為に対して批判が巻き起こったり、そんな折も折、南京大虐殺をテーマにした映画が公開されたりしている。何だか日本人の残虐性のようなものばかりがクローズアップされているようです。実際、日本のニュースでは殆ど毎日のように猟奇的な事件が報道されているのが現状ですね。今もテレビのニュースでは拳銃男立てこもり事件が繰り返し伝えられています。

尤も、昨晩の同じBBCのニュースにしても、イギリス国内のニュースもやはり猟奇的な事件の話題が多いのです。アメリカでも立て続けに銃の乱射事件が起こりました。戦争がないはずの日本でもイギリスでもアメリカでも、こうした事件が頻発しているということは、ただ戦争がないだけでは平和な社会とは言えないということの証明なのではないでしょうか。戦争はなくても、経済が発展したとか回復したとか言っても、もっと根本的なところで社会が病んでいるように思います。「生きること」、「生きていること」の意味が失われようとしているのではないでしょうか。

そういう状況であればこそ、私たち一人一人が、生きること、生きていること、それも、人と一緒に生きているということの素晴らしさが感じられるような世の中、社会づくりの実現に向けて生き、仕事をしていく必要があるのだと、改めて思わずにはいられませんでした。そういう社会を一日も早く実現することこそ、リンゼイさんのご両親の訴えを聞いてしまった私の、ご両親に対する日本人として果たせる責任なのだろうと思うのです。

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May 10, 2007

良い事、悪い事

先日占いの話題について書いたので、今日はそれに関連して少し書いてみたいと思います。それは、人はどうしても「良い事」とか「悪い事」とかを性急に判断しがちだ、ということです。

物心ついた頃からずっと幼稚園や学校で、「良い事」、「正しい事」、「正しい答え」ということばかり教わってくるからでしょうか、多くの人がこの事に拘り過ぎているように感じられることがよくあります。例えば、仕事をするに当たって一番大事なのは、私は事実だと思っていますが、誰かに「どうしてこれはこういう風に処理したんだっけ?」と単純に聞いてみても、聞かれた方は何か間違ったことをして責められているのかと感じて、「これは誰々さんからそういう風にやれと言われたので、私は言われた通りにやっただけで云々。」とすぐに言い訳が始まったりします。或いは別の場面で、「ねぇねぇ、あれ、あたしがやっといたんだけど、却って手間かけて迷惑じゃなかった? 迷惑だったらごめんね!」と、やたらと自分の行為に不安な人もいます。更には、「あの人っていい人なの、悪い人なの?」なんて人に聞いてくる人もいます。

人がいい人になるのも悪い人になるのも、それはその人とある人との関係性によって起こることなので、絶対的にいい人とか、絶対的に悪い人というのはそういるものではありませんね。同じように、ある事柄についてもそれがいい事なのか悪い事なのか、単純には判断できないこともあります。占いをするのも、誰だっていい未来を聞きたいし、いい未来にしたいと思うからでしょうが、いい運勢が出たからといって手放しで喜べるわけでもありませんし、悪い運勢が出ても落ち込む必要はないのではないでしょうか。塞翁が馬の故事は皆さんもご存知でしょうが、人がいいことが起きたと言って喜んでいる時にこの老人はそれが不幸なことにつながることを見通し、逆に不幸なことが起こって人が嘆いている時に、それが幸運へとつながることを見通したのでした。

占いで面白いのはタロットです。ご存知のようにタロットにはいろいろと象徴的な、しかもわかりやすい絵が書いてあって、占ってもらう方もそのカードを見ればなんとなくイメージできるところはあります。で、例えば「死神」のカードが出たりするとぎょっとするのですが、「死神」=「悪い運」というわけではないのです。「死神」はその名の通り「死」=「終わり」を意味するのですが、終わりとはまた新しいものの始まりでもあるのです。その証拠に、タロットの「死神」のカードは、前景は恐ろしい死神の絵ですが、その背後には朝日のような、明るい光が描かれているのです。古い自分が死んで、新しい自分に生まれ変わる、という、希望に溢れる状態をも表しているのです。なので、例えば現在の恋について占っている場合には、その恋が終わることも意味しますが、同時に、今までの慣れきってしまった関係が続くなら二人に先はないが、そういう関係を見直して新しい二人の関係を築けるなら先がある、とも読めるのです。

逆に、「世界」のカードは何もかも満たされ、それこそ世界は自分のためにあるような完全さを表す、幸運のカードのように思われますが、私は占っていて、このカードが現在の問題として出て来たことがあり、はっとしたことがあります。「世界」が問題とはどういうことか。それは、自分がもう完結してしまっていて、満足しきっているので、それより先に発展、成長しようがなくなっていて、つまり終わってる、ということを意味していたのでした。

こうして、タロットのカードが表すのと同じように、私たちが現実の生活の中で遭遇する様々な出来事も、それだけで「いい」とか「悪い」とか簡単に判断できるものではないと思います。大事なのは、そうしたいろんな事が起きた時に、それを冷静に受け止め、その先を見通し、そして自分はどうするか、自分自身で考え、行動することではないでしょうか。人生も、仕事も、そして恋愛や人間関係も、正しい答え、なんてないのですから。

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May 08, 2007

占いのこと

最近占い絡みの仕事の話がありました。それはこの占い師の人が、私自身も占いをやってることを知ってるからでしょう。私は、いろいろな流れで占いを勉強したことがありますが、一つには勉強不足というのと、もう一つは、日本人の占いに対する意識に疑問を感じるところもあるので、やってると公表はしていないのです。

その疑問とは何か? 一言で言うと占いにハマりやすい、ということです。占いにハマるということは、自分自身の人生を生きるのではなく、占い師が明らかにした未来を生きるようになる、ということです。一番いいのが占いで悪い運が出た場合です。例えば有名になった占いの言葉に「大殺界」というのがあって、周りの女性たちも、「あたし今大殺界に入ってるから何やってもうまくいかないのよ」なんて言ってたりしますが、このように、うまく行かないことの理由に使われてしまうんですね。運が悪いんだからしょうがないと。逆に、いい運が出てる場合は何が起こっても、運がいいんだから大丈夫、と強気だか楽天だかを決め込んでしまいますね。

どちらも要するに、占いがそうなっているんだから、が言い訳になっていて、自分を変えようとしない態度がどうかと思うのですね。私は、実際は、運は自分の生き方次第で変わるし変えられる、という立場の人間なのです。わかりやすいのが手相の例ですが、手相というのは簡単に言ってしまえばただの「シワ」です。その皺は何でできるかというと、現在の健康状態を反映していると言えます。そして今の健康状態は、これまでの自分の食生活だったり、精神状態だったり、生き方の結果であるわけですね。だから、手相を見ればこれまでどう生きてきたか、そして、このまま生きていけば将来どうなるかがわかるわけです。それも何歳でどうなるか、までわかります。で、例えば、5年後に大病をします、とかわかるわけです。ここで大抵の人がガーンとなるわけですが、それはあくまでも今のままの生き方を続けた場合です。おもしろいことに、自分のおかしなところに気づくと、見事に手相は変わるのです。それも気づいたその瞬間から変わり始めます。

手相の場合を例にとりましたが、他の占いも同じような傾向はあると思います。悪い運勢は警告であり、良い運勢は今持っている素質を大事に生かして行きなさいというアドバイスであり、何れにしてもその結果を客観的に受け止め、自分をよりよくしていく努力は必要なのです。ところが、皮肉なことに、占いのお客さんは大抵が「自分は変わりたくない」と思っている人たちが多いようですね。もっと正確に言うと、「自分は何もしないで、周りの環境とか人間関係とかがよくなってほしい」と願っているということでしょうか。状況をよくするのに「自分も変わらねばならない、自分に問題があるのだ」と感じる人は心理カウンセラーの許に通うようです。

そういう意味で面白いのはタロットかもしれませんね。タロットはカードの絵が示す象徴的な言葉を伝えていくことになるのですが、お客さんは大抵その言葉にハッとするようなのですね。お客さんとの関係が十分親密になっていれば、「そう言えば……」と始まることでしょう。人間、何か迷っている時も、本当は自分でその答えはわかっているものです。が、気づかないふりをしていたりします。それがタロットのカードとそこから導かれる占い師の言葉をきっかけにしてその答えが顕在意識化するわけですね。タロットのそういう面を生かすなら、これはもう立派なカウンセリングになり得ると思います。

話が長くなりましたが、このように、占いが人の意識をハメていくのがいやなので占いをやらないと言っているのですが、逆に、ハマりに来たお客さんの意識が変わり、自分自身で運を開いていけるようなカウンセリングの場としてならばそれもありかなと思っています。冒頭の仕事の依頼は、そういう条件でおもしろいものを作りましょう、ということで協力をお受けしたものです。おもしろいもの、できたらまたここでご報告しますね。

それでは、また。

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May 04, 2007

憲法記念日の後に〜平和国家としての理念を忘れずに

昨日の憲法記念日は、このブログで憲法の英語についての文章を書いた後に、そう言えばこれも5月3日だったな、と、小林正樹さんが監督した『東京裁判』のDVDを見て寝ました。この映画は東京裁判そのもののアメリカ側と日本側の映像、それに裁判が熱かった事件に関する様々な映像と、殆ど記録映像の組み合わせだけで構成されたものなのですが、やはり事実というものの見せる力は強く、4時間という長さを感じさせずに一気に見てしまえるものなのです。日本の現代史を考えるのにいい材料ですので、是非一度ご覧になることをお勧めします。

さて、その映画の冒頭、日本に原爆が投下され、昭和天皇がポツダム宣言を受諾した旨を国民にラジオで伝える、終戦の詔勅、属に言う玉音放送が紹介されます。玉音放送と言えば、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」というところが有名ですが、映画ではこの玉音の最初から最後まで聞く事ができるのです。非常に長い詔勅であり、難しい漢語的表現が多いので、パッと聞いただけでは何を言っているのかわかりにくいと言えばわかりにくいでしょう。母によると玉音放送のあった日、ラジオのあった母の実家に近所の人たちも集まってみんなで聞いたのだそうですが、やっぱり皆よくわからなかったようで、地元では知識人として通っていた祖父に皆が聞くと、「(戦争は)どうも負けたようだ。」と祖父が言ったのを母は覚えているそうです。

昨晩、改めてこの玉音を聞いてみて、私は非常に感動しました。というか、はっきり行って泣けて泣けて仕方なかったですね。戦争に直接関係のない私がこうなのですから、当時の人々にとってはいかばかりであったでしょうか。何にそんなに感動したかというと、その詔勅の根底に流れる世界の平和、共存共栄を願い、国民の幸福と安寧、未来を願うお気持ちの深さです。そして、そこに奇しくも、同じ日に読んだ、あのGHQから押し付けられたと言われる憲法に流れる理想、理念と共通のものを感じたのです。
憲法があのような形になったのは、やはりある必然に基づくのではないか。ああでなければならなかったのではないか——。

「ケンポー、ケンポー」と言いますが、そもそも「憲法」とは何なのでしょうか? 勿論この言葉は古くから日本にある言葉ではありますが、現在使われているのは英語の「constitution」の訳語としてでしょう。そしてこの英語は元々、「構成、組成」を意味し、「体質」を意味する言葉です。それが国の組織を設定した文書という意味になっていったものなのです。言わば国の設計図のようなものです。私たちがその人生の全てを、否、自分だけでなく自分の家族や、もしかしたらまだ見ぬ子孫の人生をも託す「国」という家の「設計図」。そういう設計図ならば、100年経っても200年経っても、そう、1,000年経っても有効な設計図でなければならないのではないでしょうか。となれば、それは、普遍的な理想なり理念なりをベースとしていることが必要となるでしょう。

環境や条件は常に変化します。いい時ばかりとは限らない。そういう状況の中で常に成功している企業は普遍的な理念を掲げている企業だということはよく知られていることです。国も同じではないでしょうか。そういう意味では、私は、今回、英語から憲法を読み直すという変則的な方法を通じてですが、この憲法を貫く徹底した平和主義に改めて感銘を受けました。この理念、精神は決して失われてはならないと感じるのです。

国際政治を学んだ私の常識から言えば、「非武装中立」というのはあり得ません。自国を十二分に守れる強さがない国など信用できない、というのが国際社会の冷たい現実でしょう。が、皆がそれが現実だから、を言い訳にしているからこそ戦争はなくならないのではないでしょうか。わが国の理想主義的憲法が生まれたのが、インドでガンジーが無抵抗、非暴力によって自由、独立を勝ち取ろうとしたのと同じ時期だというのはとても象徴的だと思います。平和は、武力では決して得られないのではないでしょうか。そして、正にその平和の実現に向けてこそ、この日本という国には向かっていってほしいものと思います。

改憲するのか、しないのか、するのであればどう変えるのか、それは私たちの人生にかかわる国の設計図です。私たちがどう生きていきたいのかということと無関係ではない問題です。自分がどんな国で、どんな風に生きていきたいのか考えながら、今一度憲法を読んでみられるとよいと思います。最後に憲法を日本語と英語で読めるページをご紹介しておきます。

http://homepage3.nifty.com/constitution/materials.html

それでは、また。

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May 03, 2007

気になる条文あれこれ〜憲法記念日に(5)

さて、前回は一条と九条について思わず長くなってしまいましたので、今回はその他の気になる条文をさらっと見ていくことに致しましょう。途中大幅に飛ばして、第四十一条です。

Article 41. The Diet shall be the highest organ of state power, and shall be the sole law-making organ of the State.

<私訳——国会は国権の最高機関であり、国の法律を作成、制定する唯一の機関である。>

これもまんまですが、敢て砕いた表現にしてみました。日本文は「国の唯一の立法機関である」ですね。敢てこの文章を引っ張り出して来たのは、「立法」というと難しい言葉だけれども、その実態は中学生でもわかる「law-making」=「法律を作る」ということであり、従って、国会議員の仕事というのは法律を作ることなんですよ、というのを今一度思い出してもらいたかったからです。(実際、アメリカでは議員のことを「law-maker」=「法律を作る人」と表現したりします。)

皆さんは、会期中の、NHKで深夜0時か1時頃放送されている最後のニュースをご覧になったことがあるでしょうか? このニュースの最後に、その日成立した法律を(恐らく)全て紹介し、一言で簡単に解説するコーナーがあるのです。これを見ていると、如何に多くの法律が毎日決まっているかがわかります。じっと見ていると、なるほどー、こういう法律って必要だよねー、と感心するものあり、逆に、何で今更こんな法律作るんだ? と訝しく思うものもあります。こうした細かい法律の一つ一つが私たちの日々の生活や仕事に影響していることを考えると、テレビで大写しに報道される法案だけでなく、こうした細かい法案にも注意しておくべきでしょう。テレビでは大体決まった役者たちがワァワァと騒いでるだけのようで、一体この人たちは何でこんなんで高い給料を貰えるのかと思ったりもしますが、その裏で、地道に法案を一つ一つ作っては成立させているというのもまた事実なのです。

給料のことが出たついでに、第四十九条。

Article 49. Members of both Houses shall receive appropriate annual payment from the national treasury in accordance with law.

<私訳——衆参両院の議員は、法律の規定に従い、国庫から適当な額の年収を受け取る。>

「適当な額」というのはどの位なんでしょうねぇ。随分貰ってるんではないかと思いますが……。その一方で、苦労している議員もいるという話も聞きますよね。日本文は「相当額の歳費」となっていて、何となくたくさんもらえそうなニュアンスがあります。

あと、最近問題になりそうなところで、第八章「地方自治」の第九十五条を見てみましょうか。

Article 95. A special law, applicable only to one local public entity, cannot be enacted by the Diet without the consent of the majority of the voters of the local public entity concerned, obtained in accordance with law.

<私訳——ある一つの地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その関係する地方公共団体の有権者の投票による、過半数の同意なくしては、そのような特別法を国会が制定することはできない。>

国の利益と地方の利益が相反するケースは沖縄などのケースにあるように、これからもどんどん増えていくでしょうね。

で、この地方自治に続くのが、改正の手続についてです。第1項のみ取り上げます。

Article 96. Amendments to this Constitution shall be initiated by the Diet, through a concurring vote of two-thirds or more of all the members of each House and shall thereupon be submitted to the people for ratification, which shall require the affirmative vote of a majority of all votes cast thereon, at a special referendum or at such election as the Diet shall specify.

<私訳——この憲法の改正には、衆参各院の総議員の3分の2以上の賛成票を得て、国会により動議されなければならず、その後、国民の批准を受けなければならず、それは特別な国民投票、または国会の定める選挙の日に行われる投票に於ける、過半数の賛成票を必要とする。>

出席者の3分の2ではありません。各院の全議員の3分の2以上ですから、これはかなり厳しい条件です。安倍首相は任期中に改正を実現すると言ってますし、民主党側でも対案があるなんて言ってますけれども、今日、中曽根さんがどこかでおっしゃっていたように、本当に真剣に憲法改正を考えるなら、与野党の大連立とか政界再編とか、そういうことを視野に入れないと無理なんではないでしょうか。

最後に、あの崇高な前文に対応する後書きのような、第十章「最高法規」の3つの条文を見ておくことにしましょう。

Article 97. The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

<私訳——この憲法が日本国民に保証する基本的人権は人類の長年にわたる自由獲得への闘争の賜物である。これらの権利は多くの厳しい試練に耐え、永久に冒すことのできないものとして現在、及び将来の世代に信託されたものである。>

Article 98. This Constitution shall be the supreme law of the nation and no law, ordinance, imperial rescript or their act of government, or part thereof, contrary to the provisions hereof, shall have legal force or validity.
The treaties concluded by Japan and established laws of nations shall be faithfully observed.

<私訳——この憲法は国の最高法規であり、この憲法の規定と矛盾する如何なる法律、政令、詔勅、或いは政府の行為の全部または一部も、その法的な力、有効性を持ち得ない。

<日本が締結した条約、及び既に確立している国際法については、誠実にこれを遵守する。>

Article 99. The Emperor or the Regent as well as Ministers of State, members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution.

<私訳——天皇または摂政、並びに国務大臣、国会議員、裁判官、そして全ての公務員はこの憲法を尊重し、擁護する義務を負う。>

実は、一番大事なのはこの最後の規定かも知れません。何故なら、この文章の途中で書いたように、この憲法は本来国家権力から国民を守るためのものであり、その憲法を揺るがせにするのはここに挙げられた政府や国会の人たちの可能性があるからです。必ずしも改憲という名目でなくても、この憲法に抵触する動きをしようとしていないか、この憲法が規定する崇高な理想に向かって本当に国の舵取りをしているのか、私たちは真剣に見守る必要があるように思います。

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一条、そして九条〜憲法記念日に(4)

さて、それでは気になる条文をいくつか見ていくことに致しましょう。まずは、やはり、冒頭の第一条、天皇の地位についての規定についてです。

Article 1. The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.

<私訳——天皇は国の象徴であり、国民の統一の象徴であって、その象徴としての地位は主権を有する国民の意志に由来するものである。>

小学校で初めてこれに相当する日本語を読んだ時は、全く意味がわからなかったといってよかったですね。一体、何が言いたいのか。尤も、小学生で「象徴」、「国民統合」、「国民の総意」といった言葉を、概念を、それまで教わったことがなかったわけですから、わからなくて当たり前かもしれません。そういう意味では小学生にこの憲法を教える先生方の努力は並々ならぬものがあろうかと思われます。

そういう子供の私がうすうす感じていたのは、結局、これは国内的には「天皇は国のトップだよ」と暗示し、対外的には「主権はあくまでも国民にあるんで、天皇はただの飾りだよ」と誤摩化した文章のように感じたということでしょうか。子供の頃からませた、生意気だったわけですが、今、英文を読み直してみるとあながちその推測は当たってなくもなさそうですね。「国民統一の象徴」ということは、つまり元首であることですし、すぐその後で
「でもその地位は主権者の国民次第なんだよ」と但し書きをつけているわけですから。これ故にでしょう、結局、世界的、と言いますか外交的には日本の元首は天皇であると、どんな国のプロトコルや年鑑などにも記載されています。

因みに、私は象徴天皇ということが長い間どうもよくわかりませんでした。天皇が「国民統一の象徴」であるということは、具体的には、天皇の存在を感じることによって自分自身が日本人であることを感じるということです。果たしてそんなことがあるのか? 確かに、オリンピックなどで日本人がメダルを獲って「日の丸」が揚がり、「君が代」が流れると、選手ともども泣いてしまったりはしますが——。それを意識したのは実のところ、昭和天皇が崩御された時でした。家が比較的近かったので、御苑の大木戸門から出て来る昭和天皇を載せた車を見送りに行ったのでした。そして見送りながら、自分のアイデンティティの、大きな何かが失われたように感じたのでした。考えてみれば、私にとっては生まれる前からあの天皇がいて、そして、天皇と言えばずっとあの天皇なのだと思っているところがあったのでした——天皇もただの人間であることは当然わかっているはずなのにも拘らず。国民の象徴とは、そういうことなのかもしれません。自分がどういう国のどういう時代に生きているかを改めて感じさせてくれる存在ということでしょうか。

では、いよいよ、九条です。

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

<私訳——正義と秩序を基盤とする国際平和を心から願い、日本国民は国の主権としての戦争を、並びに、国際紛争を解決する手段として武力による威嚇を行い、或いは武力を行使することを永久に放棄する。>

これは、すごい平和宣言だと思います。放棄する内容は日本語では「国権の発動たる戦争」となっていてよくわからなかったのですが、英語では「国の主権として(認められている権利である)戦争を」という含みがあるということです。「主権」というのはもともと国際法の用語ですが、つまり、個人に基本的人権が認められているように、国際社会の中でも、ある要件を満たしていれば「主権国家」としての権利が認められる、と考えて頂ければわかりやすいかと思います。主なものとしては、対外的な独立性や、ある一定の領土を有すること、その領土内の人民に対する統治権を有することなどが挙げられ、また、全ての個人が神の下に平等に生まれついているように、全ての主権国家は平等であるとされています。(これが認められてなければ国連の議決は成り立ちませんね。)戦争とは本来、そのような主権国家に認められた権利の一つであったわけです。国際的紛争の解決には勿論、外交的手段に何より優先することは言うまでもありません。が、外交が失敗した場合の最後の切り札として戦争が用意されていた、というのが第二次世界大戦までの言わば政治的常識だったわけです。

そうした、本来、国の権利として認められている戦争権を放棄する、というのですから、これは随分思い切った宣言であると言わなければなりません。ここには、時代の流れもあるでしょう。それまでは、戦争とはそういう外交の手段であればこそ、負けた国は、正しいとか間違ってるとかいうこととは関係なく、負けたのだから国として領土を割譲したり、賠償金を払ったりしてその責任を全うする、ということで終わっていたのですが、第二次大戦の時は戦争そのものが犯罪であるとされ、更にはその戦争を起こした責任者として個人を戦争犯罪人として裁き、処罰するという、前代未聞のことがニュルンベルクと東京で行われたのです。戦争は国に認められた権利ではなかったのか? それが犯罪であるということであるなら、そんな権利はいっそのこと、世界のどの国よりも先に投げ捨ててしまおうではないか! 我々は新しい、理想を実現する国民として生まれ変わるのだ! そういう意気をこの英文には感じるのです。(因みに所謂「東京裁判」の開廷と共に日本の戦争犯罪の罪状が数え上げられたのは憲法施行のちょうど1年前の1946年5月3日です。)

こうして戦争が犯罪とされて60年経つにも拘らず、わざわざ他の国の内政が気に入らないからと戦争をしかけて勝利し、負けた国の指導者をやはり裁判にかけて死刑にしてしまうような国があることこそ、正に国家主権の蹂躙ではないかと思うのです。

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

<私訳——前項の目的を達成するため、陸・海・空軍及びその他の戦力は永久にこれを保有しない。国の交戦権はこれを認めない。>

これは殆ど日本文そのままですね。

この後、基本的人権についての条文が続きます。第十一条から十四条まではフランスやアメリカの人権宣言に匹敵する名文と思いますが、ここの日本語は特に難しくないので飛ばします。ただ、改憲論議との絡みで言うと、この辺りも改憲の対象になっていることに留意すべきです。繰り返し出て来る「公共の福祉に反しない限り」という人権の制限についての部分を「常に公益及び公の秩序に反しないように」と書き換えようという論議もありますが、これは非常に危険と言えるでしょう。政府が「公の秩序を乱している」と決めればいくらでも個人の自由を制限できるからです。各国の憲法の基本的人権規定が、国家が個人の自由を束縛することを禁止するためのものであることを考えると、こうした制限規定こそ時代錯誤の非民主的なものと言わねばなりません。九条問題も重要ですが、この辺りがどのように議論されているかも注視していく必要がありますね。

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まずは前文の英語にトライ!〜憲法記念日に(3)

さて、前置きがえらく長くなってしまいましたけれども、いよいよ「日本国憲法」の英文に実際に触れてみることに致しましょう。まずはその「前文」です。この前文は、「We, the Japanese people,...」という文言で始まっていますが、これを初めて見た時、私は大変感動したのを覚えています。何故なら、「We, the People...」と言えばアメリカ合衆国憲法のあまりに有名な出だしであり、日本国憲法が自由を平和を求めるアメリカの独立革命、フランス革命などの歴史を通じた一連の歴史的文書であることをそこに感じたからです。

We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution. Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded. We reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.

<私訳——私たち日本国民は、正当な手続によって選ばれた国会における代表者を通じて行動し、私たち自身のため、そして私たちの子孫のために、世界の全ての国々との平和的協力による成果と、わが国全土における自由の恵みとが確実に享受されるようにすることを決意し、また、政府の行為によって戦争の恐怖が二度とこの国に訪れることのないようにすると固く心し、ここに、国の主権は国民にあることを高らかに宣言し、この憲法を固く制定するものである。政府とは、国民の聖なる信託によるものなのであって、従ってその権威は国民から生まれるものであり、その力は国民の代表者たちによって行使されるべきものであり、そしてその利益は国民が享受すべきものである。これは洋の東西を問わず普遍的な、人類の原理なのであり、その普遍的原理の上にこそこの憲法が基盤としているものなのである。私たちは、この憲法と矛盾するいかなる憲法、法、政令、詔勅を断固拒絶する。>

熱い文章だと思いませんか。前文の半分を占めるこの長い段落に、最初に私が述べた西欧の自由と基本的人権への戦いの歴史全てが盛り込まれていると言ってもいいのではないでしょうか。途中の「政府というものは国民の聖なる信託……」からのくだりは、リンカーンの有名な「government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth. (人民の、人民による、人民のための政府は決してこの世から滅ぶことがない)」を彷彿とさせますね。

We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in the peace, free from fear and want.

<私訳——私たち日本国民は、永久の平和を願い、崇高な理想こそが人と人との関係を支配しているのだという事実に深く気づいており、従って、私たちは自らの安全と生存とを守り抜くと決意したが、それは世界の平和を愛するあらゆる国の人々が持つ正義と信義とを信頼してのことである。私たちは国際社会の中で、平和を守り、専制と奴隷制、抑圧と不寛容をこの地球から永久に追放することに励む国民として、栄誉ある地位を与えられることを願う。私たちは全世界のあらゆる国民が、平和のうちに、そして恐怖や困窮から免れて生きる権利を有していると認識するのである。>

この一節では平和と人権の擁護者としての日本国民を宣言するわけですが、途中の「他の国民の正義と信義云々」というところ、一瞬何でここで人に期待するような文章が出て来るのか、あれ? と思ってしまいますね。で、これは本文を読めばわかるわけですね。例の第九条の伏線になっているのです。「崇高な理想のみが人と人との関係を豊かに作り上げていく」という冒頭の分から、ならばその理想を実践しよう、軍備を全て撤廃する。このような理想を現実にしようとする無防備な国を、まさか攻撃したりなんて、そんな正義にも信義にも欠けることはしませんよね、ということではないでしょうか。そして、自国が軍備を持たないだけでなく、世界の全ての国々のために恒久平和とあらゆる人権蹂躙の動きと戦っていくというのですから——この節も最初の段落に劣らず崇高な理念に溢れた文章と言えますね。

We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

We, the Japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.

<私訳——私たちは、どんな国も自分の国のことにだけ責任をとっていればよいわけでなく、政治の道徳法則は洋の東西、時代のいかんを問わず普遍的なものであり、従って、そのような普遍的法則に従うことこそ、自国の主権を維持し、他国との対等な関係を持とうとするあらゆる国々にとって必要なことであると信ずる。

<私たち日本国民は、私たちの持てる全てを賭けて、上記の崇高な理想と目的とを必ずや達成することを、ここに、名誉に賭けて誓うのであります。>

どうでしょう? 何てカッコイイ、歴史的宣言なんでしょう! 「カッコイイ」なんて軽薄な言葉を使うと真面目に改憲が護憲かを論じている人たちからはお叱りを受けそうですけれども、この英文は、私たちがよく知っている日本文に比べて実に歯切れよく、高邁な、人類普遍の理想へと向かう希望と力に溢れているのではないでしょうか。私は最初この前文がどうにも頭に入ってこなくて眠い思いをしたのを覚えていますが、英語で読むと実に鮮烈なイメージが湧いて来るではないですか。だからいいとか悪いとか、改憲しなきゃいけないとか、そういうことではありません。世界の人々が日本の国の憲法と言った時に目にするのはこの英文であり、このような高邁な理想に溢れた歴史的文書を憲法として持っていることを、私は世界に誇っていいのではないか、そう思うのです。

続きはまた後で。

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「天皇」=「Emperor」という訳語〜憲法記念日に(2)

翻訳の問題でもう一つ話題になることがあるのが「天皇」は果たして「Emperor」でいいのかどうなのかということですが、結論から申し上げると、結局はこの訳語こそが戦後の日本を救う事につながったのではないかと思っています。

「Emperor」は通常「皇帝」に対する訳語であって、また「皇帝」にも「Emperor」が対応するように考えられていますが、それはこの二つの言葉とその政治的な役割が似ているからでしょう。「皇帝」は中国の用語であり、「Emperor」はローマ帝国を元にする言葉で、本来異なる文化圏、異なる政治体制の言葉であって、翻訳などできるはずはないのですが。

中国で初めて「皇帝」という言葉を使ったのは例の、秦の始皇帝だとされています。中国では歴史が三皇・五帝に始まるとされています。三皇とは、この世の初めに現れた、天皇・地皇・人皇という、名前そのものに「皇」のついた神様のこととも、伏羲(ふっき)・女媧(じょか)・神農(しんのう)という、治水や農業など中国の社会・文化基盤に貢献あったとされる伝説上の人物とも言われています。一方、五帝は、黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯・舜とされいます。黄帝は、某メーカーのドリンク剤にその名前がついている程、薬や医術を整備した人として、そして、堯や舜は、学校で漢文の時間に習ったでしょう。特に堯の御代は「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」と呼ばれ、民が楽しく豊かに暮らした時代とされていますね。

この五帝の後、「王」が統治する時代となるのですが、最初に統一王朝である周が弱体化すると各地に「王」を名乗る実力者たちが群雄割拠し、所謂春秋戦国時代に入って行くわけですが、この状況の中で秦王の政(せい)は、自分は他の国の王とは格が違うのだ、自分はこの世を創り給うたあの三皇・五帝を合わせた力を持つ「皇帝」である、それも自分がこの中国を統一し、新しい歴史を創る、その始まりの皇帝、「始皇帝」である、としたのです。歴史が自分から始まる、としたわけですからそれまでのことを書いた歴史書も、その歴史を知る人々をも全て亡き者にしようとした「焚書坑儒」はあまりに有名です。

秦の始皇帝以降、中国の歴代統一王朝の支配者は皇帝を名乗るようになり、周辺の属国の長、言わば代官のような役目として王を規定するようになるのです。例の、福岡で見つかった金印の「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」という文言も、当時の日本が中華帝国の従える王国の一つであったこと事情を説明しています。

一方、「emperor」の元の語、ラテン語の「imperator(インペラトール)」は、有名なユリウス・カエサルの後にローマを統一し、アウグストゥスと呼ばれたオクタウィアヌスに初めて用いられた称号です。ローマは基本的には元老院を中心とした政治が行われてきましたが、時に強いリーダーシップを持つ人間が現れ、英雄視されることもありました。中でも一番有名なのがカエサルでしょうが、彼は「独裁官」=「Dictator(ディクタトール)」という地位にまで上りつめました。が、それが人の妬みを買ったか、反対派にあっけなく暗殺されてしまいます。それを見ていたからか、アウグストゥスは何度も与えられる称号を辞し——中には「神の子」とか「國の父」とかいうのもあります——最後に、崩御の年に贈られた最終的な長い称号の一番最初が正にこの「Imperator」=「最高司令官」だったのです。(正式には、「Imperator Caesar Divi filius Augustus, Pontifex Maximus, Consul XIII, Imperator XXI, Tribuniciae potestatis XXXVII, Pater patriae(=最高司令官・カエサル・神の子・尊厳なる者・大神祇官・執政官13回・最高司令官の歓呼21回・護民官職権行使37年目・国の父)」——長い!)ここからローマは所謂「帝国」となっていき、「Emperor」とは広大な版図を持つローマ帝国の最高司令官として君臨することになるわけです。

(ここで、「大日本帝国憲法」の第四条「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ(The Emperor is the head of the Empire, combining in Himself the rights of sovereignty, and exercises them, according to the provisions of the present Constitution.)」と第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(The Emperor has the supreme command of the Army and Navy.)」を思い出して頂けると、それは正に「Emperor」=「最高司令官」の定義そのままと言えると思います。)

ところで、ヨーロッパ史において、それでは「王」とはどういう存在かというと、これは地方にあって部族なり地域なりをまとめるための、やはりローマ皇帝の代官のような役割でしかなく、秦の政と違って王の身から皇帝になろうなどと思うものなど当初はいなかったようですね。そもそも英語の「king」もドイツ語の「Koenig(ケーニッヒ)」も、元の意味は「(高貴なる)血族」という程度の意味なのです。部族の中で力ある一族の人たちが「王」に選ばれ、部族を束ねていき、それがそのままローマ帝国に取り込まれて行ったという事情があるのでしょう。そして、中央の絶対的権力と周辺の異民族に代官を置くというこのシステムはローマと中国に共通するものであり、自然と「Emperor」=「皇帝」、「King」=「王」という対応関係が成立したのでしょう。

さて、ここで日本の天皇に戻りたいと思いますが、この称号を初めて用いたのは天武天皇の時のようです。それまで「オオキミ」と呼ばれていた国の指導者を、「スメラミコト」、つまり、「聖なる神の言葉」と名付けたのはこの天武こと大海人皇子(おおあまのみこ)で、この称号を「天皇」と翻訳したのもこの人だったのです。ここまでこの文章を読んで来て方にはおわかりの通り、「天皇」とは中国の歴史書では、この世に最初に現れ、この宇宙を最初に創り給うた神の名前でした。この称号を以て天武は、自分は中華帝国の属国の王などではない、独立した国の、しかも中国の皇帝などより遥かに高い地位の、天の意志を、御言葉を実現する指導者なのだ、と宣言したわけですね。

こうして見てくれば、私が最初に述べたことの意味がおわかりになれるでしょうか。「天皇」=「Emperor」ならば、それは最早戦勝国のどの国の指導者たちよりも格が上だということです。イギリスは王国ですが、先に述べたように「King」や「Queen」よりも「Emperor」の方が格が上です。アメリカの大統領は民衆の中から選ばれた代表者に過ぎませんし、ソヴィエトや中国は正にその王なり皇帝なりを廃した革命のリーダーたちだったわけです。これらの戦勝国が戦後の日本で自由にその影響を行使するには、是非とも、彼らにとってすら心理のどこかで「神聖冒さざるべき」と考えている天皇に退位して頂き、帝国を解体する必要があったろうと思います。マッカーサー元帥は天皇に謁見した時に、それまで会った他の人間からは感じたことのない崇高な感動を覚えたと伝えられていますが、恐らく他の戦勝国の指導者たちも同じく只ならぬ何かを天皇に感じていたのではないでしょうか。そのマッカーサーが天皇制の存続を死守しようとしたことはよく知られていますが、それは、日本国民の戦勝国に対する不満を和らげるだけでなく、同時に、他の戦勝国が日本国内にこぞって乱入するのをも防いだのだろうと私は思うのです。そしてこれは、誤訳であれ何であれ、「天皇」が「Emperor」と訳されていたことが大きいだろうと思うのです。

追記——この文章はよくお読みになって頂ければおわかりだと思いますが、あくまでも言葉の洋の東西での使われ方が現実の国際政治の中で心理的効果を与えたのではないかという論考に過ぎないのであって、決して天皇を賛美しているわけでも、また、私が天皇を神と信じているわけでも、或いは、大日本帝国憲法時代の日本がよかったなどという趣旨のものではありません。蛇足とは思いますが、敢てここに明記しておきます。

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もう一つの「ダイエット」〜憲法記念日に(1)

本日は憲法記念日ということで、数日前からNHKなどで憲法について考える特集番組が組まれていますね。施行60年というひとつの区切りの時期に、安倍首相は憲法改正に本腰を入れようとしており、今この時期に今一度憲法を読み直し、この問題を考えることは正にタイムリーと言えます。NHKの番組では先の日曜日に放送された「NHKスペシャル〜日本国憲法誕生」と昨日の「その時歴史が動いた〜憲法九条・平和への闘争」がおもしろかったですね。

現在の日本国憲法はGHQの草案が基になっていることはよく知られていて、従ってこれは押し付けられた憲法であって国民の憲法ではない、という議論を聞くこともあるわけですが、今回のNHKスペシャルでは、日本人側も様々な条文を追加、死守しようとしたこと、他方、ワシントンに日本大使館内に設けられた戦勝国から成る極東委員会では、GHQ草案に反発したり、日本を弱体化するための規定を盛り込ませようとする動きがあり、GHQが極東委員会と日本政府の間でギリギリの調整をした上で現在の憲法が成立したのだという事実を初めて知りました。この番組によると、問題の第九条が現在の姿になったのは日本人側の提案によるものだということでした。当初「軍隊を保持してはならない」という消極的な、それこそ押し付けられたような文章だったのを、いや、これは日本人の主義として、理念として不戦を世界に高らかに謳い上げるのだ、と、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という理念の部分が追加され、文末も「永久にこれを放棄する」とあくまで国民の意志としての表現になったのだそうで、このようにこの条文が決定されたことは、私たち日本国民が世界に誇っていいことなのではないでしょうか。一方、「その時」の方は、国際政治の現実の流れの中から岸信介元首相が60年安保を成立させるも、国民の強い反対運動が岸政権を総辞職に追い込み、この民衆の力、平和への願いこそが今日まで憲法を改正させずに来たのだ、という希望に溢れるものでした。

そんなわけで、私も久しぶりに憲法を読み直してみましたけれども、どうしても避けて通れないのが「結局原文は英語でしょ」という問題だろうと思います。実は、日本語の文面でどうにもよくわかりにくいところは、英語を読んでみると何ということのないシンプルな文章だったりします。そこで、問題の「第九条」はじめ、いくつかの文章を英語で読んでみたいと思います。

その前に、です。英文を読むに当って気になる言葉をいくつか整理しておきたいと思います。一つは「国会」に当たる英語=「Diet」。「ダイエット」と言えば食事制限のことを思い浮かべる人も多いでしょうが、何と日本の国会も「ダイエット」というのです。

現在の世界の多くの国には日本の国会に当たる議会がありますが、この議会に当たる英語は様々です。イギリスでは「Parliament(パーラメント)」、アメリカは「Congress(コングレス)」、イスラエルでは「Knesset(クネセット)」、特にイランなどの中東のイスラーム国では「Majlis(マジュリス)」、そして日本は「Diet」と、この位の言葉の使い分けがわからないとなかなか英字新聞を読むのに苦労します。それにしても、何故、日本の国会は「Diet」なのか?

私は、これもGHQの使った用語かと思ってましたが、実はこの英語はその前の「大日本帝国憲法」から受け継がれた用語でした。「大日本帝国憲法」では「帝国議会」を「Imperial Diet」と訳しており、「帝国」ではなくなったので、「Imperial」を取り、或いは「国民の」を意味する「National」を挿し入れて「(National) Diet」と表現を改めたものだったのです。ではその「Imperial Diet」はどこから出て来たのか?

実は、これは「大日本帝国憲法」が参考にしたと言われるドイツはプロイセンの憲法からの英訳でした。つまりプロイセン憲法にある、「帝国議会」=「Reichstag(ライヒスターク)」の英訳だったのです。現在でも連邦議会は「Bundestag(ブンデスターク)」と呼ばれていますが、この「議会」に当たる「Tag(ターク)」の部分が英語では慣例的に「Diet」と訳されてきた、という経緯があるのです。従って、元々はドイツなどの議会を指す言葉だったのですね。それにしても、ドイツ語を少しでも齧ったことのある方ならおわかりのように「Tag」とは「日」のことですよね。何故「日」が「議会」になるのか? そして何故それを「ダイエット」と訳すのか?

ドイツ語の「Reichstag」という言葉は神聖ローマ帝国時代に遡るそうです。神聖ローマ帝国と言えば、もう皇帝の絶対的権力の時代ですから、議会なんてあってないようなものだったでしょうね。いわば、皇帝が意見を聞くための一種の諮問機関のようなものだったのではないでしょうか?

諮問機関、という言葉から思い出したのがペルシャ語やアラビア語の「Divan(ディワーン)」という言葉です。元々はペルシャ語で「記録」を意味する言葉だったようですが、「ディワーン」と言えば『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』を思い出される方もあるのではないでしょうか。アラブの王様が毎朝大臣や客人たちが居並ぶ部屋に表れて玉座に座り、或いは大臣たちの意見を聞き、或いは民衆の訴えを聴き、あれこれと指示や命令を与えて解決する——それが王様の日々の政務であったわけですが、おそらくはそこでの公式記録が法律となり、やがてその部屋そのものから、結審する場まで「ディワーン」と呼ぶようになったのではないでしょうか。今のペルシャ語では「裁判所」の意味になっています。

話が逸れそうですが、恐らくは神聖ローマ帝国の皇帝の毎日もこのようなものだったのではないでしょうか。そこで、皇帝や諮問官たちとの間での審議を「日々のこと」=「Tag」と呼ぶようになったのかもしれないと想像するのです。

それでは、「ダイエット」の方は? もともと「diet」という言葉は、ギリシャ語の「diaita(ディアイタ)」に由来していて、その意味は「生活方法」であり、「常に食するもの」でした。それがこの言葉が「食事」を意味するようになっていくわけなのですが、ここで勘違いが起こります。この言葉が「日」を意味するラテン語の「dies(ディエス)」に似ていることから、「日々のもの」だから「食事」だと勘違いされるようになったのです。そして、同じ「日々のこと」という意味で、ドイツ語の「Tag」を英語にする時にラテン語風に「Diet」としてしまったのです。

長くなりましたけれども、こうして日本の「国会」に当たる英語「Diet」は、実は皇帝=「Emperor」の国としてのドイツの歴史と伝統を踏まえた用語だったのです。この用語は今となってはもう時代遅れでしょうか? いえ、何れにしても、国会議員の方々にはこの言葉が秘めている通り、「日々」私たちの生活を、未来を真剣に議論して頂きたいものだと思います。

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April 23, 2007

世界を変える

もうひと月ほど前になりますが、NHKの「プロフェッショナル・仕事の流儀」で映画監督の宮崎駿さんが取り上げられていて、大変おもしろく拝見しました。番組の中で宮崎さんはいろいろと考えさせられる発言をされていましたが、中でも印象に残った言葉があります。

宮崎さんの息子さんの監督デビュー作品「ゲド戦記」の試写会を見終わってのことです。恐らくNHKの記者が恐らく試写を見ての感想か何かを聞き出そうとしたのでしょう、宮崎さん、こんな風に言うのです。「初めてにしてはよく出来た、というのは本人にとって最大の侮辱だよね。」と。そして続けるのです。「ものを作るというのは、世界を変えるつもりで作るんだよね。」

そう! その通りなのです。映画監督に限らず、クリエイターなら誰でも世界を変えるつもりで仕事するのです。音楽だって彫刻だって小説だって、みんな今ある世界や価値観に違和を感じていて、自分の作品を通じて、もっといい世界、もっといい価値を生み出すんだ、という意気で取り組むわけですよ。であれば、「初めてにしては」何て言われたら、それはつまり既存の世界や価値観の中で評価されて、その中でも大したレベルではない、と言われてるわけですからね、これは最大の侮辱なわけでしょう。同時に、自分自身で、「俺はこれだけやったんだから、自分なりにやったんだから」なんて甘えたことを考えてしまったら、これはもうクリエイター失格ですね。寧ろどんなに周りから評価されようと、自分自身で「世界を変えた!」と感じられるまで、本当に自分の仕事をしたことにはならないのでしょう。

こんなことを書いている僕自身は何をして世界を変えようとしているのか、自分に問うてみました。前にも書いたことですが、私はずっとこの世界の真実を知りたかったし、知った以上はその真実を伝えたいと思ってきたのです。あまりにもいい加減な情報に溢れているこの世界で、人間の生きる真実を伝えたいと。

果たしてそんな真実があるものなのか、あったとしてわかるものなのか、訝る人たちは多いかもしれません。私がそういう真実への確信を得たのは、いつもここで触れているいだきしんさんのコンサートや講座を通じてのことです。そのいだきしんさんのコンサートが明日午後7:00から、東京目黒区のめぐろパーシモンホールで行われます。すべてのはじまりである、自己の真実を見出せる素晴らしいひとときです。是非足を運んで頂ければとお勧めさせて戴きます。

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March 29, 2007

ゲーデル「不完全性定理」の話(1)〜文系と理系の間

昨年、岩波文庫からゲーデルの『不完全性定理』が出版され、ずっと気になっていたのですが、やっと最近買って読むことができました。ちょうど今日本文の2回目を読み終わったところです。

ゲーデルの「不完全性定理」とは数学の世界の話で、従って、この文庫本も、本屋で覗いて頂ければおわかりになると思いますが、309ページあるうち本文は15ページから62ページのわずか50ページ足らずで、殆ど訳注と解説なのですが、その50ページ足らずに数式がやたらと載っているので、敬遠する人は多いでしょうね。ああ、自分は文系だから無理だな、或いは関係ないな、と。ところがどうして、この「不完全性定理」は、アインシュタインの相対性理論、そしてボーアやハイゼンベルクらを始めとする「量子論」と並んで、私が、21世紀を生きる現代人にとっては常識的に知っているのと知らないのとでは、ものの見え方、考え方がまるっきり変わってしまう、そういう必須の知識と考えているものなのです。

ここで、先に書いたように、「自分は文系だから自然科学の知識は必要ない」と考える方がいても不思議ではないと思います。が、文系とか理系とかというのは、本来学問の体系上の分類に過ぎず、それをそのまま人間に当てはめて文系人間、理系人間と分類するのはどうかと思うのですが。私は文系の国立大学の出身で、その大学を受けるには共通一次試験、今のセンター試験を受けなければならず、数学は勿論、理科も2科目受けなければなりませんでしたが、高校では物理と化学を選択してました。当時は理系は物理と化学、文系は生物と地学を選択するのが普通でしたから、私は当然理系だと思われていたようです。が、数学の点数が悪かった。数学そのものは好きでしたが、高校入学から共通一次直前まで、200点満点の模試で一度も100点を超えたことがなかったのです。(本番では何と168点だった!)実はこの頃から文系、理系という分け方や、好きということと点数を取るということの違いについての疑問はうすうす抱いていたのでした。

しかしまぁ、世間では文系、理系と分けて教育が進んでいくので、否が応でもその仕組みにはまっていってしまいます。かつて「毎日新聞」の日曜版に連載され、その後出版化されたSF作家石川喬司さんの『IFの世界』(毎日新聞社 1978 絶版)に次のようなクイズが紹介されています。

「質問A『あなたはシェークスピアを読んだことがありますか』
 質問B『熱力学の第二法則を知っていますか』
 この二つの質問に即座にイエスと答えられる人、手をあげて。
 おそらくBの方で『うーん、何だったっけ?』と首をかしげた読者が多いのではないでしょうか。ところが、この二つはほぼ同じレベルの質問なのです。それなのに答えがかたよるのはおかしい——……。」(前掲書 P214)

 シェークスピアは原典を読んだことなくても、どんな本を書いたか、それが大体どんなストーリーかくらいはどなたもご存知でしょう。問題は質問Bの「熱力学の第2法則」ですよね。確かに、この質問は理系の人には何ともないでしょう。そして、その具体的事例は実は誰でも経験的に知っていることなのです。熱いお湯が入っているコップに冷たい水が入っているコップをくっつけるとお湯の方は温度が下がり、水の方は温度が上がりますね。最終的には2つのコップに入っている水の温度は同じになります。このように熱は温度の高い方から低い方に、もっと正確に言うと、密度の高い方から低い方に移り、最終的な密度が均一化するという現象を言います。これがそのまま、整然とした状態は必ず乱雑な状態へと変化するという「エントロピー増大の法則」へとなっていきます。そう、「エントロピー」と言えば、ビジネスの世界でも流行した言葉なので皆さんご存知でしょう。

言われてみれば何ということのない当たり前なことで、これを無意識に知っているからこそお風呂が熱い時は水を入れますし、毎日お掃除したりするわけですね。それが、「熱力学の第2法則」と言われただけで拒否反応を示してしまう——。文系の人にとって理系の世界が難しく敷居が高いように見えるのは、実はこの程度のこと、というのが案外多いものです。そして、そういう先入観を捨てて思い切って理系の世界に遊んでみると、なかなか面白いものだと気づき、またいろいろな新しい発見もあるものです。

実は、ゲーデルの「不完全性定理」は数学の話ではありますが、論理学と関係があることなのです。そしてこの論理学、本屋に行っていろんな本をパラパラめくってみるとわかると思いますが、やたらと数式が現れる理系風な本と文字ばかりで書かれた文系風の本との2種類があることに気づくと思います。論理学は人間のものの考え方や行動に関わる学問であり、従って、理系、文系を問わず、その両方に跨がるものなのです。

実は、私がゲーデルの名前や「不完全性定理」を知ったのは、今から二十数年前、学生時代に読んだダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ—あるいは不思議の環』(白揚社 2005)という大部な本を読んで以来のことなのです。この本は発売当時100年に一度の名著と言われたもので、エッシャーの不思議な絵、バッハの音楽、そしてゲーデルの不完全性定理に共通する「不思議な環」の謎を解いていくというもので、それぞれの章の間に、論理学ではお馴染みのアキレスと亀のおもしろい対話が前奏曲として挿入されていて、実に楽しく読めるのです。もともとエッシャーもバッハも好きだった私はそのおもしろさにあっと言う間に読み終えてしまい、難しいはずのゲーデルの不完全性定理の魅力も知ることになったのでした。

というわけで、この定理について、そして論理学というものについて、不定期になるかもしれませんが、少しずつ書いていってみることにしたいと思います。が、まずは、この辺で失礼します。

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March 28, 2007

勝つことの難しさ

さて、先日の日曜日に白鵬が優勝して大相撲の三月場所が終わりましたけれども、その優勝の仕方には納得いかなかった方も多いようですね。今回は14日目の段階で13勝の白鵬を12勝の朝青龍が引き落としで下して両者13勝同士となり、千秋楽での決定戦にもつれ込んだわけですけれども、この、強者同士の一番が再び見られるとあって、みんなの期待は否が応にも盛り上がってしまっていたのでした。そう、誰もが両者がっぷりと四つに組んで、というのを期待していただけに、立ち会いすぐに白鵬が朝青龍をぺちんと叩き込んであっという間に決着が着いてしまったのには納得がいかないのでした。私はたまたま前日の取り組みも見ていて、前日は白鵬が勢いよくかかっていったのを朝青龍が引き落としであっさりに下してしまったのもあっけなかったですが、この日もあっさりと決着してしまったのには拍子抜けしてしまいました。ここのところずっとスランプが続いていた白鵬としては何としても勝っておかねばならない試合だったわけですが、私の知人は、「横綱の頭を押さえつけて手をつかせるなんて、あれは横綱に対して失礼だ。あれでは横綱にはなれないですよ!」と憤慨しておりました。

この勝負で思い出したのが前日のフィギュアスケートの選手権でした。安藤美姫選手が優勝の金メダルを勝ち取りましたが、私も一緒に見ていた友人も、優勝を決めた彼女のフリーの演技には必ずしも納得しなかったのです。確かにきれいな演技ではありましたけれども、確実でできることだけでまとめていて、私たちが期待するときめき感のようなものがなかったからです。そういう意味では浅田真央選手の方がよかったですね。だからでしょう、前日5位と振るわなかったにも拘らず、最終的な合計点では安藤選手にコンマ6ポイント差まで肉薄したわけですから、どんなにすごい演技であったかの証明でしょう。そう言えば、あの、荒川静香選手のオリンピックでの演技も、殆ど涙が出そうになるくらいのときめきと感動がありましたね。今回の安藤選手には、これが足らなかったと、私も友人も感じたのです。得点差はあれだけあったのだから、やっぱり4回転に挑戦してほしかったですね。ミスはなくとも、無難な演技には何の感動もないのです。

白鵬にしても、安藤選手にしても、その優勝は誰もが期待していたのです。私自身そうでしたから。ましてフィギュアの方は、表彰台に日本人が2人も立つという快挙で、それ自体非常におめでたいことなのです。にも拘らず、この納得いかない感じというのは何なのだろう、と思わずにはいられないのでした。もうさすがに「勝ち組/負け組」という表現は以前程聞かれなくなりました。「勝ち組」と言えば元ライブドア社長の堀江さんや、投資ファンドの村上さんを思い出しますが、あのような事態になってしまったのでは、「勝つ」ということに対する疑問が出て来たのも当然でしょう。勝てばそれでいいのか? 今勝っていても、それで将来勝ち続けることはできるのか? そこへ昨年は藤原正彦さんの『国家の品格』がベストセラーとなり、今度はやたらと「品格」ということが言われるようになってきました。

勝たなければならない。負け続けているのなら、尚更のこと勝たなければならない。だけれども、その勝ち方の「質」というものが求められるようになってきたのではないでしょうか。これは、やたらと「形」ばかりが優先されてきたこの国で、漸く「質」ということを多くの人が問題にし始めたということなのではないでしょうか。だとすれば、これはこの国にとっていい方向なのではないかと思うのですが——。

スケートと相撲というスポーツの優勝決定戦を見ながら、ふとそんなことに思いが及んだのでした。「勝つ」というのは、本当に難しいことですね。

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March 25, 2007

PASMOの使い方

首都圏でPASMOのサービスが始まってから一週間になります。私もちょうどこの時期に通勤定期が切れたのでPASMOに切り替えて使い始めましたが、これはなかなか便利でいいですね。何と言っても私鉄だろうがJRだろが、パッとタッチするだけで改札を通れるので、切符を買う手間などがなくて、スムーズに乗り換えができるのがいいのです。しかも従来のパスネットなどのように改札機を通さなくていいので、その機械的動作に要する時間とか、トラブルとかがその分少なくなっているのもスムーズさに貢献し、快適さを高めていると言えますね。

これまでにも同様のサービスはJRのSuicaがありましたが、これまではJRだけでしたし、私鉄はパスネットカードでしたが、これはチャージができないのでつい中途半端な金額が残っているカードが何枚もたまってしまうのでした。昨今はどこに行ってもポイントカードがありますでしょう? それもあって財布や定期入れの中がカードだらけになり、しかも必要なカードがすぐに出て来ないような状況が嫌いなので、できれば余計なカードは持ちたくなく、結局JRも私鉄も切符を買ってしまうのでした。

それだけに、今回のPASMOは1枚で何てもできるとあって、ちょっと期待していました。冒頭に書いたようにちょうど定期が切れたので、今まで使っていた磁気定期券を入れてPASMOに切り替えます。個人データは再入力が必要でしたが、いつも定期を継続購入するのとほぼ同じ操作で出て来ました、出て来ました、PASMOのカードが。そのカードの表面に定期の内容が印字されているではないですか。これでこのカードが定期として使えることはわかりましたが、それだけではつまらないので早速チャージしてみます。これも無事できました。あとは使ってみるだけですね。

早速PASMOを買った翌日、会社の帰りに途中の駅で乗り換えてある所へ行ってみましたが、見事に乗り換え駅からの分が差し引かれていて「オオ!」と訳もなく感心してみたりします。更には、JRの改札を初めて入る時もちょっとドキドキ。それでも難なく通過。お金は事前に払っているにも拘らず、何だかタダ乗りでもしてるような、或いは得したような気持ちになるのが不思議です。

加えて、何と言っても、このPASMOを便利にしているのは、最初に述べたように機械的に改札を通さなくていいところなのですが、すごいのは定期入れに入れたままでちゃんと感知してくれるところですね。それだけに、同じ定期入れに別のカードが入っていたりすると誤動作やトラブルも起きたりするようですが、そういう状況を回避しておけばこれも問題ないでしょう。私は財布や定期入れでなく、名刺入れに入れるようにしました。それだと胸ポケットからさっと出してさっと改札を通り抜けられるからです。とにかく、いちいち出さなくていいのがいいですね。

そんな性質を利用してでしょう。先日おもしろい光景を見ました。私の前にいた女性は、何と、ハンドバックの底に入れてあるようで、ハンドバックをセンサーにちょんと当てて実にカッコよく改札を抜けて行きました。ハンドバックも通すのか、と私は驚くと同時に、そんな使い方もあるのかとおかしくなって一人笑ってしまいました。

都会人は何をそんなに急いでいるのかと笑う方もいらっしゃるかもしれませんが、とにかくこのPASMO、使い方一つで時間を短縮するツールになりそうですね。さて、皆さんはどんなところに入れて使いますか?

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March 21, 2007

春分の日、ノウルーズ、そして暦の話再び

今日は春分の日ですね。この日はイランではお正月、元旦に当たる日で、この3月21日の正午を以て新しい年が始まる、とするのです。つまり、昼と夜との長さが同じ日の更にその真ん中の時間、それが新しい年の始まりとなるわけですね。このイランのお正月「ノウルーズ」についてはこれまでも何度か書いてきましたので、それを参考にしてもらうことに致しましょう。

「イランの新年について」(2005/03/07)
「イランのニュースから〜そして『高句麗伝説』」(2005/03/18)
「『ノウルーズ』春の到来(翻訳)」(2005/03/20)
「イランからのメール」(2005/04/09)
「春分の日――新しく生まれ変わる日」(2006/03/21)

「エイデ・ノウルーズ・モバーラク!(お正月おめでとう!)」のメールをイランの友人に送り、新しい年が彼女にとってよい年になるよう祈ったのですが、そのメールに、ふと気づいたことを書いてしまいました。その趣旨をざっと日本語に直すと、

「今日は日本も祝日なのです。『春分の日』というのですが、考えてみると、日本は旧暦と言って、長い間中国式の暦を利用してきました。その暦では2月3日頃、一年で一番寒い『立春』を正月としています。不思議なことに、今でも旧正月の行事はあるものの、この日は祝日ではないのです。なのに何故春分の日が祝日なのでしょうね? これにはもしかすると今から1,500年前にイランの文物がいろいろと入ってきた時の影響があるのかもしれませんね。」

全く日本の伝統行事はいろいろおもしろくて、例の、「お水取り」として知られる東大寺の「修二会(しゅにえ)」も「水」だけではなくて「火」も出て来て、火と水の宗教であるゾロアスター教の影響を感じさせますよね。実際、修二会がそう呼ばれるのは旧暦の二月に行われていたからですが、旧暦の二月ということは今の3月、春分の日、イランのノウルーズに近い日の行事なんですね。

ところで、暦のことを考えると、それぞれの文化というものが見えてくるようで実におもしろいですね。イランは昼と夜の時間が同じ春分の日ですが、いわゆる旧暦は、上の私のメールでも触れているように、一年で一番寒い日を、つまりその日から暖かくなるということで「春立つ日」、「立春」として、この日を始まりとしているのですね。実際には多少のずれがあるのでしょうが、中国の「旧正月」、いわゆる「春節」も、日本の建国記念日が2月11なのも、ここに由来していますね。それから、クリスマスの時に少し触れたと思いますけれども、ヨーロッパでは、やはり寒いからでしょう、夜が一番長い冬至の日を、つまりはそこからは陽の光が増える日として正月にしたようですね。実は、クリスマス、つまりイエス・キリストの降誕祭が12月25日なのは、当時のヨーロッパの人たちにキリスト教を広めるために冬至の日を選んだ、とされているくらいです。

昼と夜が同じ日、夜が一番長い日、そして一年で一番寒い日、それぞれそこに生きてきた人たちの知恵を感じますね。

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March 20, 2007

止める!

昨日、仕事では言い訳をしないように言っている、ということを書きましたが、これに関連して思い出したことがあるので書いてみることにします。それは、仕事で一番大事なこと、或いは逆に絶対にやってはいけないことは何か? というものです。皆さんはどうお考えになりますか? 勿論、その答は一つではありませんし、私自身その時その時で違うことを言うかもしれません。

最近私が感じてることでは、一番やってはいけないのは、仕事を「止める」ことです。逆に大事なことは「止めない」ことですね。というのも、今働いている会社に管理職の方で何事につけ止めてしまう方がいらっしゃるからなんですが。ご本人としては勿論ご本人なりの言い訳や理由があるのはわかるのですが、しかし、本当にその仕事の重要性を理解しているなら、いくらでもその仕事が流れるようにする手はあるはずなのです。

なんて書くとまた偉そうなことを言ってあなた自身はどうなのだ、と糾弾されそうですが、はい、実は私もかつて大きな仕事で、もっとはっきりと言うと、人類の未来に関わるような(!)大きな仕事を止めてしまって、つまりは大変な失敗をしでかしたことがある人間なのです。だからこそこのことに拘るのかもしれません。

その時の私もそうでしたし、先の管理職の方もそうなんでしょうけれども、結局のところ、仕事を止めてしまう人というのは、その仕事全体のこと、その仕事の意味というのがわかっていないのでしょうね。私は仕事とは、結局のところ誰かを幸せにすることだと思っています。でも、多くの場合、その誰か、は、見えていないことが多いですね。自分が請け負っているのは、その人を幸せにするための仕事の、ほんの途中の一部分だったりすることの方が多いのではないでしょうか。そしてその部分だけで仕事というのを見て、その先にいる人のことを忘れてしまう。自分の担当している部分についてやることはやったのだからそれでいい——そう思ってしまいがちなのですが、そうではないのですね。

そして、その仕事の最終的な目的ということを考えるなら、どんな仕事にもその旬の時というのがあります。物を売るというようなお客さんが目の前にいる仕事でも、お客さんをあまりに待たせてしまってはそのお客さんも不満を抱いたまま帰ってしまいますし、或いは大きなプロジェクトのようなものでも、時機を逃したら全く意味のないものになってしまうということもあります。

だからこそ、仕事を止めたり、遅らせたりすることは、その仕事にとって致命的だと思うのです。人間の生きる世界ですから、不測の事態は次々に起こると言えます。が、それでも、思い描く、あるべき未来を実現するために一歩でも先にその仕事を進めること、それが大事だと思うのです。

そう、そんな未来へ向かって、止めたり、止まったりすることなく、絶えず進んで行くことに致しましょう。

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March 19, 2007

好きな人、そして因果律の向こう側

私はいい年をして結婚もしてませんし、恋人と言えるような人もいません。それで時にどんなタイプの人がいいのかと訊かれることがあります。時には「女優で言うと誰?」なんてのもありますね。そう訊かれていつも思うのは、タイプとか何とか、そういう条件で人を好きになるもんなのかな、ということです。女優なんてテレビや映画でしか見たことない人は好きも何もあったものではなく、好きだとしたら顔が好き、とかそういうことなんでしょうけど、だとしたらその女優さんそっくりの人なんてそんなにいるもんでしょうかねぇ? あまり意味のない質問のように思えますね。タイプというのもよくわからない。性格とか何とか一点挙げればいいんでしょうけど、そんな一点だけで人なんて好きになるんでしょうか? なのでどんな人が? と訊かれたら、悪戯っぽく「えーと、美人でスタイルよくてかわいくて、やさしい性格で、趣味や生き方が同じで、いろいろ話し合うことができて……」と身の程知らずな答をしてしまうことになります。だって、当たり前ですよねぇ?

今は付き合っている人はいませんが、実は好きな人たちというのはいますよね。好きになるだけなら一方的ですから。(笑)で、その人たちのどういうところが好きなのかと考えてみると、これがよくわからないのですね。好きになった人たちに共通点があるかと言えば、あるようなないような。(タイプとかで好きになるんだったらもっと一貫性があるはずですよね。)その人のどこかに——ある仕種だったり表情だったり——に母親や初めて好きになった人の面影を感じるからか、などとフロイト流の解釈を与えて納得しようとしたこともありますが、やっぱりそれでは心から納得できない、その人の何かに惹かれるのですね。その人の存在自体と言っていいのかもしれない。女の人は必ずと言っていいほど、「あたしのどこが好きなの?」と訊きますが、これにはいつも答えに窮してしまうのです。

他の人はどうなんだろう? と思うのです。人を好きになるのって、何か理由が要るもんなんだろうか、と。次に思うのは、人を、異性を好きになるという、本能的、根源的なものですら理由が必要なのだから、より本能的でない事柄に理由が必要なのは当たり前ですね。とすれば、私たちは何につけ理由をつけて生きていることになります。その意識が進むと、理由があれば何事もOKということになります。

私が今働いている会社で自分のスタッフにいつも言っていることは、仕事で失敗したら言い訳をするな、ということです。人というのはすごいもので、自分を守るためにはありとあらゆる言い訳、理由を見つけ出してくるものです。言い訳をするな、というのは、その言い訳なり理由が通ってしまえば、つまり間違ったのは仕方のないこと、避けられないことだった、つまり、その人には問題はなかった、ということになり、その人が更に成長するチャンスを奪ってしまうことになるからです。失敗を自分のことと受け止めれば、そこまで考えが至らなかった自分に気づき、より広い視野で物事を見たり考えたりすることができるようになり、つまりは能力アップにつながると考えます。

「これがあったからこうなった」というのを因果律、因果関係と言います。多くの論文では先に起こった事象Aと後で起こった事象Bとの間にこの因果関係を見出すことで議論が展開していきますが、しかし、同時に私たちが気をつけなければならないのは「因果関係の誤謬」というものです。学生の頃、経済学を勉強していた時に、有名なポール・サミュエルソンの『経済学』を原著の最新版で読んでいたのですが、その冒頭で彼がこれについて触れていたのが印象的でした。つまり、事象Aが事象Bに先立つからと言って、事象Aが事象Bの原因であるとは限らない、ということです。「お母さんが朝から起こるから学校の帰りに雨が降ってきてズブ濡れになったでしょ!」というようなことを感情にまかせて口走ったりしますが、お母さんが起こったのは雨が降る前であったとしても、お母さんは天気とは全く関係ないことは誰でもわかるはずです。が、程度の違いこそあれ、この類の「論理」を私たちは口にしがちなのです。

何につけ理由をつけて生きていくことは、同時に自分の夢なり目標なりが決して実現しないように生きていくことでもあります。因果関係の中で生きていくということは、現在も未来も過去の積み上げに依存し、不測の事態が発生した場合には、同様に未来も予測不能のものになってしまいます。しかし、きっと偉大な人たちはそういう生き方ではないのでしょう。実現すべき未来が先にあって、現在があり、その延長線上にこそ過去はある。実現すべき未来のために当時はどんなに不幸に思えた過去も意味のあるものとなってくる。同時に、途中どんな不測の事態が起ころうと、どんな妨害が入ろうと、その未来を実現すること以外は考えない。と書いて、『旧約聖書』に出て来るモーゼとかダニエルとかを思い出してしまいましたけれども、ああいう風に何が起こっても淡々と目的の実現のために生きていく姿というのは本当にカッコイイものですね。

自分も、あれこれ理由をつけながら生きるのはやめて、目的の実現、未来の実現に向かって生きていきたいものだと思うのです。

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March 14, 2007

本当の色

さて、長いことブログを休んでいた間、関根敏行さんの新しいCDの製作にも関わっていたと書きましたが、その中で、ジャケットなどのデザインについての打ち合わせにも参加しまして、おもしろい経験をしましたので、その事について触れてみようかと思います。

ご自身のCDですから、関根さんご自身、デザインやレイアウトについていろいろとご意見をおっしゃいます。ここで印刷の担当の方がおもしろいことをおっしゃってました。

「今はDTPで、誰でもパソコンで簡単にデザインできるようになったでしょ? だから昔はデザイナーがいて、印刷会社で版下を作成してと、なかなか専門的な世界だったんですけど、今はパソコンが発達して、それまで写真家やデザイナーがやっていた部分を、素人さんが、クライアントさんが直接自分でできるようになっちゃった。で、そうやって作ったデータを印刷屋さんに送れば、印刷屋さんはそれを印刷するだけ、というのが仕事になっちゃた。印刷屋は本当に印刷するだけになっちゃったんですよ。で、逆に、それまでの過程が全部、クライアントさんの仕事になっちゃったんですね。」

言い換えると、クライアントは自分の好きなようにデザインできるようになったのと同時に、印刷内容に対する責任、文字校正は勿論、色合いに至るまで、その責任はデザインしたクライアント自身にあるというわけですね。クライアントが仕上がった結果を見て不満を言ったとしても、頂いたデータ通りに印刷しただけですから、と言われてしまうでしょう。便利になったのか不便になったのか……。

自分でいろいろとできるようになったこと自体は歓迎すべきことではあるのですが、しかしDTPについてはどうしてもやっかいな問題が生じます。「色」の問題です。ご存知のようにパソコンのディスプレイは「RGB」という、「光の三原色」に基づいて色を表現します。画面自体が発光体ですから、色合いも明るく美しく表現されています。これに対し、紙への印刷は「CMYK」という、「色の三原色」に黒を加えたもので表現されます。色を表現するしくみが違うので、パソコンの画面の色合いがそのまま紙で再現されるかどうかは実に微妙なのです。パソコンやプリンタの調整、加えてどんな紙を使用するかで、色合いは大きく変わってきます。

更に驚いたことには、同じ紙でも、写真の「カラープリント」、あれは印刷で使われる「CMYK」とは違うしくみなのだそうです。ということは勿論、デジカメで撮った写真を「カラープリント」した場合と、プリンタで印刷した場合は違う結果になる可能性があるということです。私たちに身近なデジカメやプリンタは、プリンタで印刷した時にカラープリントと似た色合いになるように、メーカーごとにいろいろと調整されているのだそうです。

ということは、待てよ。ということになります。デジカメで撮った写真をパソコンの画面で見ます。そして写真屋さんに持って行ってカラープリントにします。そして、同じパソコンのデータからフォトショップやイラストレータを使って紙に印刷します。或いはそのデータをメールか何かでデザイン会社や印刷会社に送ってそこの違うメーカの違う機種のプリンタで打ち出します。それぞれの色が違うとすると、一体、本当の色合いはどれなのでしょう?

ちょうど一年ほど前のことですが、ある会食の席で、デザイナーの方と隣り合わせになりました。私はその頃、フォトショップの色補正のことで苦労していたりしたので、その方に訊いてみたのです。

「自動色補正、ってあるでしょう? あれをやるとくっきりはっきりした絵になっていいんだけれども、どうも元のイメージとは全然違っちゃうし、何かわざとらしい感じがして……。」
「ああ、あれは使えないよね。」
「かと言って、手動でやってるとどうもしっくりこないんですよね。」
「どれがいい色かってわからなくなるでしょ?」
「そうなんですよ。やってるうちに何がなんだかわからなくなって、それで結局何もいじらない方がいいのかな、と。」
「フフフ。でもやっぱり補正しないとちゃんとしたものにならないんですよ。やって